危機

嘉徳8年(1516),正信はいよいよ白石攻略にとりかかる。

秦方の白石救援軍は,真秀川上では,藍原広真に撃破され,
陸路では,紗耶家譜代の名将 北田泰政,若槻の吉永久法らに打ち破られた。

救援軍の敗北を受けて,著しく士気が低下した白石は,ついに開城した。

この直後,正信は,

「河首ヘ入るのに,沼原は遠すぎて不便をきたす。」

として,先に占領した矢口へと本拠を移している。

さて,勢いに乗る紗耶軍は,
白石を落した翌年には,真秀川支流の伊吹河畔で,
京谷氏と連合して秦軍を破っている。

ところが,順調に見えた正信の秦領攻略に異変が生じる。

嘉徳10年(1518),若槻の吉永久法が離反し,
白石を攻撃し始めたのである。

久法の突然の離反には諸説ある。

有帆日野氏が吉永久法と連絡をとっていた節も見えることから,
有帆日野氏が策動した結果であるとも言われる。

折しも,正信の盟友である新名梓が,
有帆日野氏と本田氏の連合軍と抗争している最中であった。

さて,白石は東西から挾撃される危険が出てきた。

吉永久法に呼応して秦軍も反抗を開始したからである。