秦家衰退

嘉徳10年(1518)の皇太弟 詮晴の廃位により,
西軍が割れる中,河首道の西軍勢力は割れず,
高田氏も秦氏も,共に新たに皇太子となった詮秀皇子を推していた。

とはいえ,西軍全体の動揺は,
高田・秦両家中にも伝染した。

両家の家中が,
詮秀皇子支持でまとまっているわけではなかったからである。

紗耶方 藍原広真の秦家中への調略は,一層効果を上げた。

元々,広真は,河首道東部から湾陰にかけて活動していた水上勢力であり,
秦家に属している水上勢力ともつながりがあった。

中でも有力な椎名水軍の長 椎名超(こゆる)は,
広真の姉の子に当たる甥であり,
嘉徳11年(1519)に,広真の誘いを受けて紗耶方についている。

秦家の水軍力は,低下の一途をたどり,
今や,河首道河南に秦家の勢力は,及びにくくなっていた。

正信は,亘理党を傀儡化して亘理家を再興させ,
河南の支配権を得た。

秦家の衰退によって,京谷家は勢いづき,
秦家の版図北辺を蚕食した。

こうした情勢を受けて章仁2年(1522),
秦家重臣 草壁久時,安平輝高(やすひら・てるたか)が,
紗耶家に寝返った。

両名とも,
遊興に耽る秦家当主 元久に,
諫言を繰り返したことで疎んじられて,不遇をかこつ身であり,
そのために紗耶家からの誘いに応じたと言われる。