さて,章仁元年(1521),安達宗治は入京を果たして,
章仁帝を登極させることに成功していたが,
章仁3年(1523),河本詮尊・一条智成を中心に形成された反安達政権包囲網と
衝突する事態となった。
正信は,宗治より河本・香上討伐への参加を求められた。
藍原広真は,
「すぐに安達軍へご参加を。
時流は,宗治公に味方しております。
今は,宗治公のもとで力を蓄える時です。
他に遅れては,旨みが減りましょう。
留守は私がお預かりいたします。」
と言って,正信を送り出した。
実際,広真は,正信留守の間隙を突いてきた秦軍をあしらっている。
一方,正信が参加した安達軍は,河本・香上軍を降した。
安達政権による広奈国内の統一が完成したのである。
秦家は,安達政権に属する紗耶家を攻撃したことを咎められ,
宗治によって改易された。
秦家の旧領は,河本・香上討伐および秦軍撃退の功績により
正信に与えられたが,これは,
後に紗耶家と京谷家の間の火種となる。
京谷家は,長く秦家と抗争しており,
所領の一部を秦家に奪われていた。
今回,正信に与えられた秦家の旧領には,
元々,京谷家の所領だった地域が含まれていたのである。
