京谷氏との対決

清正3年(1532)の安達宗治薨去,
翌年の有間渉遊の左遷により
安達政権が不安定となると,
紗耶正信と京谷晴基の対立は,にわかに先鋭化する。

清正5年(1534),京谷軍は,
紗耶領に侵攻した。

安達正治が一条軍に大敗して包囲を受けるという,
いわゆる松下の変が生じたことで,
安達政権がたちまち瓦解するであろうと予測しての行動であった。

京谷方は,紗耶方の不意をついたつもりであったが,
従前より正信は,

「京谷方の当家への恨みは,もっともなこと。
機が熟せば,必ずやその恨みを晴らそうとするであろう。」

と警戒を怠ってはいなかった。

松下の変の報を受けた紗耶方では,
極秘のうちに戦力を動かし,
京谷氏との境界付近の防備の充実にあたった。

ここにおいて京谷軍は,
紗耶方の北田泰政,結城慶成(ゆうき・よしなり)らの猛将に難なく撃破され,
ほうほうの体で撤退する羽目となった。

さらに,実は京谷軍が紗耶領に侵攻したまさにその頃,
松下の変は,有間渉遊の活躍によって安達方の勝利に終わっており,
京谷方が予測したような急速な安達政権の崩壊は訪れなかった。

とはいえ,宗治時代に出された「私戦禁止令」は破られたのであり,
これを機に湾陰・湾陽や河首など西国は,安達政権の影響力を脱していくのである。