安達政権の衰退

松下の変を安達方勝利に導いた有間渉遊は,
「私戦禁止」に背反した京谷家への懲罰の必要性を重々承知していたが,
安達政権による河首への直接介入は今や難しかった。

松下の変で声望を高めたのは,有間渉遊個人でしかなく,
西国諸侯の連合軍に包囲される事態を招いた安達当主 正治の実力は,
諸侯から疑問を持たれてしまっていた。

正治は,命の恩人とも言える渉遊に始めこそ感謝したが,
結局は,主君である自分を凌ぐ影響力を,
天下に示し始めた渉遊を警戒するようになってしまう。

政権の全盛期を支えた賢臣・名将にしても
軍師 早良比良や渉遊の父 歳久を筆頭に,
今やその多くが鬼籍に入っていた。

かくも安達政権は不安定な状態だったのである。

しかし,傍観していては,
紗耶氏の勢力が突出するばかりである。

そこで,渉遊は政権の命として,紗耶氏に加えて,
京谷領を取り巻く高田・平瀬両氏さらには,紗耶氏と親しい新名氏にも京谷討伐を命じた。

新名氏を河首道へ進出させ,紗耶・新名両氏の関係に溝を作る目的も含まれていた。

清正5年(1534),
紗耶・高田・平瀬・新名四氏による京谷討伐が開始された。

紗耶軍2万5千は東南から,高田軍9千は北から,平瀬軍1万5千は西南から
さらに新名軍9千は,それぞれ京谷領に侵攻した。

京谷方は2万5千。

戦力で劣勢である上に孤立無援である京谷方諸城の士気は低く,
各所で開戦前から降伏が相次いだ。

京谷晴基は,諸領主から見捨てられたのである。

京谷方は敗北,滅亡した。

京谷領は,紗耶・高田・平瀬・新名四氏により分割された。

正信にしてみれば,
単独で京谷氏を打倒する気でいたのであるから,
安達政権の横槍による平瀬氏や高田氏,新名氏の介入は面白くない。

しかし,

「正治は暗君で,下策を採るばかり。

渉遊は,鬼才ですが,正治の失策の穴埋めで手一杯。

安達政権に,
西国へ直接介入する余裕はこれからも生まれないでしょう。」

と藍原広真に言われて,正信は気を良くした。

安達政権の直接介入が無い以上,
格段に力を増した今の紗耶家は,
思いのままに河首道を切り取れるからである。