小郡会戦

正信の勢力は今や湾陰・河首にまたがり,
人口200万強,動員兵力6万という強大なものとなっていた。

平瀬・高田両氏は,危機感を強め,
反正信で連合,政略結婚などをすすめた。

正信はこの両氏の動きを,
諸侯間での私婚を禁じている安達政権に対する明確な背反であると,
大義名分を掲げ,平瀬・高田両氏の討伐に着手した。

権威を勝手に利用された形の安達政権では,正治が
側近の柿木玄修(かきぎ・げんしゅう)による進言を採って,
かえって紗耶氏討伐の命を平瀬・高田両氏に下した。

正信は,玄修を主君を惑わす佞臣であると主張して,
あくまでも平瀬・高田両氏の非を鳴らし,出兵を敢行した。

清正6年(1535),紗耶軍3万6千と平瀬・高田連合軍2万2千は,
平瀬領 小郡(おごおり)で衝突した。

平瀬方には,本拠 大宮での籠城を唱える意見もあったが,
小郡が,遊井街道の要衝であるだけに,
最終的には当主 重之(しげゆき)が野戦を決断したという。

正信は,要地を攻撃することでうまく敵方を野戦へと誘ったのである。

この小郡の戦いは,別名 広川合戦とも呼ばれる通り,
真秀川の支流 広川で起こった。

紗耶方は,自軍が数で勝ることを活かし,敢えて二手に分かれた。

紗耶軍の結城慶成が,1万5千を率いて迂回,上流からの渡河を試みると,
高田勢9千がこれを阻止しようと,上流へ移動した。

紗耶軍本隊2万1千は,敵軍正面からの渡河を決行,
平瀬軍1万3千へ襲いかかった。

高田勢は,猛将 結城慶成相手によく戦った。

しかし平瀬軍は,
紗耶本体の前衛 北田泰政の突入を受けて瞬く間に潰滅してしまう。

間もなく結城隊と平瀬軍を大破した紗耶本隊の挾撃を被った高田軍は,
甚大な被害を出して潰走した。

平瀬軍では,直島之継(なおしま・ゆきつぐ),
銀山顕宣(かなやま・あきのぶ)らが戦死,
高田軍は,支柱とも言うべき森沢長友を失った。

平瀬・高田両氏にとって小郡での敗戦は致命的なものとなったのである。