世代交代

光興2年(1537),大神氏は,
高田元義を遊井に復帰させようと,
浜道地方から後各務国領へ侵入してきた。

光粛帝は,親征を敢行,遊井に入る。

大神方は,
大神軍本隊・高田残党・大神傘下の多賀氏の軍で構成されていた。

大神本隊には,雨森余一,東城朝愛,二宮朝光ら大神三将や米倉秀仲らの勇将がおり,
高田残党は北浦綱利を将とし,多賀勢は千手兼久に率いられていた。

雨森・二宮隊は,遠久保方面へ進出,
東城・米倉・高田・多賀隊は,別働隊として遊井地方西南の要衝 月丘を攻略した。

光粛帝は,月丘へ北田泰政を派遣する。

東城朝愛が囮となって南進,公京をうかがう姿勢を見せたが,
北田泰政は,東城隊を無視して月丘の米倉・高田・多賀隊を強襲した。

月丘の米倉・高田隊は潰滅,
米倉秀仲・北浦綱利・千手兼久ら主だった将がことごとく戦死,
東城隊も敗走した。

他方,遠久保を攻めた雨森余一・二宮朝光も
光粛帝の命を受けて遠久保を守る朝倉弘任・真平将廉の堅守を突破できず,
ついに退却した。

戦後,佐倉智章の調略により,
高田氏は大神氏から離れ,各務国に降伏,
多賀氏も大神氏から独立している。

光興3年(1538),光粛帝は公京へ凱旋するが,
直後に病に倒れ,そのまま崩御した。

64歳であった。

光粛帝の崩御により,太子 正永が践祚した。

後各務国は,創業者を失った。

これを好機と見た,
一条・日野・大神三氏は,遊井攻略を狙った。

一条軍・大神軍は,浜道地方の陸路・海路より,
日野軍は,遊井の北にある大谷方面へ向けて陸路より各務国領へ侵入した。

後各務国は,新名氏の援軍を得る。

北田泰政・藍原広真は一条・大神軍を大破,
特に北田泰政は,一条の将 神名宣虎(かんな・のぶとら)を討つ殊勲を上げた。

宣虎は,天啓20年(1505)の鶴見の戦いで一条の殿軍を務め,
近くは,松下の変で安達正治の大軍を打ち破る大功を立てた程の驍将であった。

他方,朝倉弘任と新名の将 新名匡も,日野軍を十面埋伏で潰走させてしまった。

新帝は,建国の功臣と盟友の支援によって,最初の危機を乗り越えたのである。

新帝 正永は,お世辞にも英邁とは言い難かったが,
群臣に支えられて,その勢力を西国で次第に拡大していくのであった。