元老院は,全国の選挙区から選出された数百名の議員によって構成される。
しかし,その内容は無論,現在の議会制民主主義のあり方とは,
相当にかけ離れたものと言える。
日生国をつくったヒナセの民は,
諏訪国や古代瑞穂国の猛烈な圧迫を度々経験し,
「帝王」の支配に強烈な拒否反応を持っていた。
そのため,南海での建国以降も君主制を採らず,
有力者の合議で国の長を選んでいた。
この合議機関が元老院へつながる。
元々は,長老衆と呼ばれていた。
長老衆の権威の高まりとともに,
長老の呼称が,より敬意をこめた元老の呼称へと変じた。
元老院制度の誕生からしばらくすると,
代々,議員を輩出する家は次第に固定化していき,
やがてそれらの家が,貴族化の道をたどっていくようになる。
結局,中世には,貴族が元老院議員の7割を占めるという状況が誕生していた。
残りの3割も豪商や豪農,知識人階級などであった。
このような日生国の当時の体制は,
特に「貴族共和制」と呼ばれる。
中世以降,貴族の家柄は,
厳格に格付けされるようになった。
中世後半には,国家元首たる「総攬」を輩出できる家も,
限定されるようになる。
「神聖」という格付けを超越した地位を保つ聖家(せいけ)の他,
格付け最上位の「玉爵」である,
成瀬家・浅宮家・有馬家・乙矢(おとや)家・高陽(かや)家・八神家ら七家が,それである。
七家の当主が決められた順番に従って総攬に就任するという順送りの仕組みまで確立された。
議員の互選により公正に総攬を選出するという古代の原則は,
中世の日生国では全く形式上のものとなっていた。
日生国は,首州の歴代王朝に対抗するため,
「総攬」を「皇帝」と同格に据えた。
この「皇帝」と同格の「総攬」という認識は,
中世初頭に日生国が常盤世界最古の現存国家となって権威を増大させる中,
常盤世界全体で自然と共有されるようになっていく。