綾湊宮

綾湊(あやのみなと)は,古代瑞穂帝国 十二代皇帝 明楽帝の
第五皇子 久世皇子に連なる家系である。

瑞穂皇帝位は,315年,吉野勝(よしの の まさり)に簒奪された。

勝は,二十四代皇帝 懐静帝から
譲りを受けたとして自らの正統性を喧伝している。

しかし,二十三代皇帝 隠霊帝の弟である相川皇子は,
勝を認めず亜州の長門で皇帝に即位した。

光烈帝である。

光烈帝による政権は後世,「長門政権」と称される。

久世の十世の子孫である嘉高(よしたか)は,
帝国復興を目指す光烈帝の命により,
亜北地方の抑えとして亜北東岸の綾湊に入ったことから,綾湊宮(あやのみなとのみや)と呼ばれる。

嘉高は,綾湊を拠点に,
ユグダ人などの反対勢力に対抗し強盛を誇った。

さらに嘉高の玄孫 嘉尋(よしひろ)は,
亜北内陸の山内(せんだい)の地へ進出して,ここを拠点とした。

この嘉尋の三男で高屋川沿岸の十和に拠った嘉成(よしなり)が,
綾湊宮家の直接の祖先となる。

5世紀中葉のことであり,嘉成は,十和宮家(とおわのみやけ)の初代となる。

十和宮家は,十和周辺に勢力を保ち続けて中世に至ったが,しかし,
勢力は弱く,名望のみの存在となっていた。

長門政権滅亡後,中世まで亜州では,瑞穂皇帝の血族が勢力を取り戻すことはなく,
代わりに,土着の勢力が首州の皇帝に朝貢し,「臣下」となり,
「皇帝の代理」として,「王」に封ぜられ,国を治めてきた。

9世紀に興った志賀国,10世紀に志賀国に取って代わった川内国がそうであり,
13世紀以降,亜州中部を押さえた名和国も同様であった。

これら,亜内の有力国は,しかし実際には,首州の皇帝に面従腹背であり,
本来,皇帝のみが立てられる元号を勝手に立てたり,首州側との関係が悪化すると,
反旗を翻したりすることも厭わなかった。

名和国も,順正帝の代に「首州の帝国」と敵対して以降は,王位は,「自称」のものとなったのである。

さて,長門政権滅亡後,十和宮家が本拠をおく亜北は,
志賀国や川内国,名和国など歴代の亜内の有力国の直接支配を受けず,
群雄割拠が続いていた。

名和国は,亜北を間接的に支配する正統性を得るために,十和宮家の名望を利用する。

十和宮家を守護する名目で,王室の一門である船岡氏を征北大将軍として,亜北鎮守府におき,
亜北の諸豪を監督させたのであった。