壬申・癸酉の乱

15世紀前半,亜州諸国は,広奈国の順正帝の遠征軍に対抗するため,
相互に同盟した。

しかし,名島の乱以後,広奈国の亜州への軍事的圧迫がなくなると,
亜州諸国の連合は,不協和音を生じ始める。

折しも名和国では,成徳王のあと,建興王が立ったが,
この建興王が建興3年(1452)年に崩じると,
天爵王と正名王による王位継承争いが勃発した。

さらに,亜北の将軍家 船岡家でも家督継承をめぐっての争いが生じる。

王位と将軍位をめぐる争乱は,
朝廷の有力者を軸とした諸侯間の権力闘争と結びつき,
大乱へと発展した。

いわゆる,壬申・癸酉(じんしん・きゆう)の乱である。

結局,天爵王が唯一の国王となったが,
それは,正名王の病死がきっかけとなったものである。

天爵方は,完全な勝利をおさめたわけではない。

正名王病死後,正名派は,その子 永恒(ながつね)を
担いだが,劣勢に立たされるようになり,
結局は,永恒を国王にすることを諦め,
天爵派と和睦したのであった。

「和睦」であるから結局,
正名派は,処断されることなくその勢力を保ち続けた。

各地での諸侯間・諸侯家中の争乱は終結せず,
王国内では群雄割拠が進むことになる。

さらに,この動乱に乗じて,
湯朝志賀国などは連年,名和国へ侵攻してきた。

首州のみならず,亜州でも情勢は混迷の度合いを深めていたのである。

後に後瑞穂国の元光帝となる昭成は,
こうした動乱のただ中にあった
名和国の天爵13年(1464),
亜北地方の十和宮家当主 英成王(ひでなりおう)の嫡男として誕生した。