将軍家の抗争

壬申・癸酉の乱の影響により,十和宮家を守護する名目の征北大将軍家 船岡家が分裂した。

十和宮家も当然,争いに巻き込まれた。

船岡家は,天爵派だった船岡南家(南家)の敬和(たかかず)が
征北大将軍位を得たが,
正名派だった船岡本宗家も鎮守府で健在であり,
亜北の大部分を実効支配して征北大将軍を自称した。

英成王は,天爵17年(1468),船岡南家に庇護される。

船岡本宗家の当主 義堅にしてみれば一大事である。

征北大将軍の役割は,十和宮家を守護することであるのだから,
その対象を南家に持って行かれては,自身の存在意義が否定されてしまう。

遅れを取り戻すべく義堅は,
集権化をはかったが,傘下の諸領主の離反を招くこととなった。

これを船岡本宗家打倒の好機と見た南敬和は,
天爵21年(1472),本宗家に対して征伐軍をおこす。

英成王も,南家のこの遠征に参加していた。

敬和は,本宗家から離反した諸領主の軍も加え,
本宗家の本拠 府中を目指した。

しかし英成王は,

「府中は極めて堅牢。長期戦を覚悟しなくてはなるまい。

にもかかわらず,府中を攻める場合,
我が軍は敵地深くまで入り込むことになる。

大いに困難を伴うであろう。

むしろ,衣を剥ぎ取るように徐々に敵の版図を削り取り,
府中に達するのが良策ではないか。」

と敬和に述べた。

だが,敬和に英成王の言葉は届かなかった。

なにしろ,この時の府中の兵力は2千程度で,
敬和の側は,亜北の諸領主を糾合したために,
2万にまでふくれあがっていたのである。

南家の陣営全体が,気が大きくなっていた。

だが結局は,英成王の読みが正しかった。

府中は,南勢の数度の総攻撃にも動じなかった。

疲弊と焦燥から動揺を生じたのは南勢の方であった。

南陣営からは,府中方への寝返りが相次ぎ,
敬和は,撤兵を決断した。

とはいえ,南勢の撤退は容易ではなかった。

英成の前言どおり,
府中は,敵地深くにある。

南勢は,敵地に孤立していると言っても良かった。

撤退に際して,南勢は大損害を出し,
英成王も府中方の猛反撃にさらされることとなる。

しかしながら英成王は,良く府中方の追撃を凌いで,
辛くも十和に帰還することができた。