危機

船岡将軍家は,皮肉にも本宗家が重光氏に滅ぼされたことによって,
南家のもとに統一された。

しかしながら,船岡将軍家が代々本拠をおいていた鎮守府は,
当然,船岡本宗家を乗っ取った重光氏に押さえられたままである。

南家と重光家は,亜北の覇権をめぐって引き続き争った。

大康5年(1478),重光義忠は,
南家に属していた早和久(そう・かずひさ)を調略して寝返らせ,
志和の地を攻略させる。

重光氏はさらに攻勢を強め,
南家の古川,佐沼を占領し,
南家の本拠 山内と要衝 三沢の連絡を遮断した。

南敬和は,名和平原の有力諸侯 鷲尾文俊(わしお・ふみとし)の協力を仰ぐ。

鷲尾氏は代々名和国の大臣職を占めた程の名門であった。

文俊は,佐沼・古川を攻め落として重光方を圧迫,
重光義忠は志和を引渡して南敬和と和睦した。

この年,昭成王子は,南敬和の娘 明子を正室に迎えている。

義忠は,劣勢を覆すため,大康7年(1480),
鷲尾文俊と敵対する名和平原の高宮武豊(たかみや・たけとよ)と連携した。
重光・高宮連合軍は,志和を陥落させ,
翌年には,三沢までも攻め破った。

こうした中,昭成王子は,大康10年(1483),宮束の戦いで重光軍を大破し,
十和宮家の存在感を示している。

しかし,南家の勢力圏が後退したことにより,
十和家の所領は,半ば敵地に突出する形となっていた。

殊に大諸侯 高宮氏と境を接しており,連年高宮軍の攻撃を被る事態は,
十和宮家にとって非常に脅威であった。

瑞穂皇帝の血を引く十和宮といえども,
敵対する諸侯にとっては,敵方の正統性を担保する厄介な存在でしかなく,
むしろ,積極的に標的にされ得る状態であった。