家督継承

事態は年々,十和宮家にとって困難となっていく。

大康12年(1485),南敬和が薨去,後継争いが生じる。

英成王は,敬和の嫡男 熾和(おきかず)を助け,
この後継争いに介入した。

熾和は,対立候補であった和盛を破って南家の当主となった。

ここまでは,十和宮家にとって望ましい展開であった。

ところが,大康14年(1486),南熾和は,それまで敵であった高宮武豊と和睦,
武豊の娘を嫡男 貞和の正妃に迎えたのである。

南家は,鷲尾・高宮両氏が和睦したのに合わせて両者と連合したのであり,
宿敵である重光氏への包囲網を形成したのであった。

熾和は,この和親の際に,南側と高宮側の係争地で一部,
高宮側に譲歩した。

その中には,十和宮家が実効支配していた所領や,
南家に属していた諸侯の勢力圏も含まれていた。

高宮方は、南家の軍勢が件の土地から引き上げると、
たちまち、これらの土地へ兵をいれた。

抵抗する領主もあったが、衆寡敵せず高宮勢に逐われてしまった。

英成王は,

「熾和公は,当家の守りでありながら当家を損ない,
また諸侯らの力を借りて将軍位に就いておきながら,
諸侯らに何の断りもなく,高宮に諸侯の所領を引き渡してしまった。

血を流したのは,我らである。

我らを蔑ろにするにも程があろうというもの。」

と憤慨し,英成王と同じく熾和に不満を持った周辺諸侯と連携して,
にわかに南家と袂を分かち,十和宮家独自の勢力を形成した。

長門政権滅亡以後,奉戴される飾りとなっていた「十和宮家」が,
自立したことは,画期的な出来事であった。

南熾和もかつての船岡義堅と同じ手法を採った。

十和宮家の血筋の人間を引っ張ってきて「十和宮」として立てて「名分」を得,
英成王を「十和宮」の偽主として打倒しようという手法である。

さて昭成王子の正室 明子は,熾和の妹であったが,
夫 昭成王子はもとより,舅 英成王や家中の信頼を得ていたこともあり,
そのまま十和家に留まって,この年,昭成王子の嫡男 頼成王子を産んでいる。

新たな一歩を踏み出した十和家であったが,
しかし,当主の英成王子自身が,
翌大康15年(1488),突如として薨去してしまう。

南熾和は,英成王の薨去を十和派打倒の好機と見て,
十和遠征を敢行する。

ここに至って,十和宮となった昭成王は,
初手から困難を迎えることになった。