黒沢の戦い

多くの諸侯・諸豪が南熾和から離反した。

熾和は,新たに離反した諸勢力の掃討,
さらには,春田・督両家との勢力争いに忙殺されることとなる。

重光義忠は,これに乗じて南家の版図を切り取ろうと
大康16年(1489),
従弟の義脩(よしなが)を総大将に任じ,兵1万5千を与えて西進させた。

昭成王率いる十和派は,
南家の滅亡が自派の危機につながるため,
重光軍の西進を遮る動きに出る。

ここにいたり,重光方は,
先手の早家の軍を三沢へ入れ,
総大将 義脩が志和へ入城,
十和領をうかがった。

三沢に入った早家の当主は,
かつて南家から重光家に鞍替えした
早和久から既にその子 重久へと代替わりしている。

重光方は十和へ向けて進発,
陸路で,高屋川の水上で,
各所において十和方を破った。

昭成王は,重光軍の先手を屠ろうと弟 成晴とともに十和を出撃する。

程なく,昭成王は重光軍が黒沢を進軍中であるとの報を得た。

十和は,三沢と志和の線を底辺とする逆三角形の頂点にあたり,
志和は,十和のほぼ真北,三沢と志和の大体中間に有る。

昭成王が三沢から出てきた重光軍の先手であろうと思い突入した相手は,
実は,志和から三沢へ移動中の重光軍の本隊であった。

重光軍本隊は期せずして十和軍の突入を受けたのであり,
態勢も整ってはいなかった。

黒沢が隘路であり,進退が容易でないことも手伝って,
重光軍は,混乱を極める。

十和軍は,総大将 義脩を討ち取った。

早重久は,三沢を放棄して撤兵し,後には昭成王の弟 成晴率いる十和勢が入城,
志和は,里見泰之の攻撃に抗いきれず開城した。