亜北の二大勢力であった南家と重光家が衰退したことにより,
亜北ではにわかに群雄割拠が進んだ。
さて,今や昭成王の参謀となっていた安正寺の僧 覚信は,
先の黒沢の戦いの直後,還俗した。
覚信の実家の父 早意智(そう・おきとも)と兄 貴智(たかとも)が亡くなり,
実家を継がなくてはならなくなったからである。
覚信の父兄は,黒沢の戦いの前哨戦で戦死したのであった。
覚信は,早智秋となった。
珍しい「早」の姓で明らかなように,
重光氏に属している早重久の血縁に当たる。
重久の早家が本家,智秋の早家は傍流である。
黒沢の戦い以後,
早重久は,重光氏から独立する動きを見せていた。
智秋は,
「早重久公と結ぶ好機です。
重久公の所領は当家の北にあり,
重光・南両氏を牽制できる地を占めています。
当家は,亜北のことは重久公に預け,
人口多く,交通の開けた名和方面へ打って出るべきです。
山深い亜北に居ては,大業の成就はおぼつかないでしょう。」
と進言した。
智秋は,本家の重久を説き,
大康17年(1490),十和家と早家の同盟が成立したのであった。
