高宮遠征

大康19年(1492),高宮武豊が42歳という若さで卒去した。

後継は,武豊の長子 綱豊である。

綱豊には暗愚の評があり,
昭成王は,

「この機会に、高宮から当家の所領を取り返そうと思うが、
どうであろうか。」

と家中に諮った。

ここでいう「当家の所領」とは、もちろん、
南家が高宮家との和親の際に,
勝手に高宮側へ引き渡した十和家の所領である。

早智秋,東条誠久らは

「まだまだ,高宮家には,
主君のために働く勇将・智将も数多くいます。

彼らは,武豊の死を深く悼み,
かえって綱豊を支える気持ちが強く,結束しています。

兵を動かす前に成されるべきことがまだまだあります。」

と出兵を反対したが,
賛成の声も多く,
結局,昭成王は,智秋・誠久らを留守居として,
弟 成晴・里見泰之とともに自ら兵1万5千を率いて十和を進発した。

十和軍は,
旧領である矢内地方を目指して出撃した。

しかし,十和軍は,
高宮軍の頑強な抵抗に遭遇し、
戦果は全く挙がらない。

こうした折,
早瀬の戦いの後,高宮方から十和家に鞍替えしていた
篠井豊元(しのい・とよもと)が,
高宮家の八幡元彦の調略によって高宮方へ復帰し,
十和軍の背後を突く動きを見せた。

昭成王は,十和への帰還を即断する。

里見泰之が自ら殿軍を買ってでた。

泰之の活躍により,十和軍は高宮方からの追撃を凌ぐことができた。

退却中に篠井勢と遭遇すると
昭成王の弟 成晴は,自ら篠井勢を引き受けて昭成王を逃した。

泰之も,成晴もからくも死地を脱して十和に帰還することができた。

帰還後,昭成王は,

「このたびのことは,智秋・誠久の折角の忠言を容れなかった私に
全面的な非がある。」

として早智秋・東条誠久,将兵ら深くに詫びている。