離間

大康20年(1493),
高宮方で,八幡元彦・西井元孝が十和方に内通しているという噂が流れた。

高宮綱豊は,にわかに動揺したが,
側近の一人である川中豊広が

「これは、十和方の謀略です。」

と綱豊に進言した。

一旦は,落ち着いた綱豊だが,
今度は,川中豊広が十和方と通じているといううわさが立ち,
さらに,豊広が十和方とやりとりしていると見られる密書まで出てきた。

川中豊広は,綱豊の前で
潔白を訴えて,

「敵の流言蜚語の類に乗せられてはなりません。」

と忠言した。

川中豊広は,その場では罪を得ずに済んだが,
それは主君 綱豊の優柔不断の賜物でしかなかった。

綱豊は,結局,疑心暗鬼を生じて噂の立った諸将を遠ざけ始める。

不遇をかこつこととなった豊広は,
懊悩するうちに病にたおれ,亡くなってしまった。

この有様を目の当たりにし,西井元孝は、

「忠義とは,なんであろうか。」

と煩悶を抱え,親交の深い八幡元彦と語らって,
ついには,共に本当に十和家に奔ってしまうのである。

元より流言蜚語は,早智秋の謀である。

高宮綱豊は,川中豊広の懊悩による死に触れ,
豊広が真に無実であったことを覚った。

しかし,本来なら
西井・八幡両将を失わずに済んだことまでは,気づかなかった。

両将が始めから,
十和家に通じていたのだと思い込んでしまったのである。

綱豊の猜疑心は,いまや強固なものとなった。

猜疑心と豊広を死なせてしまった悔恨から無気力となった綱豊は、
遊興に耽溺するようになってしまう。

綱豊を見限る者が増え、
徐々に十和方の高宮方に対する調略は効果を上げ始め,
十和方になびく者が続出した。

大康21年(1494)に入ると,
増田国継・依井元伴(よりい・もととも)ら高宮領北辺の有力領主が
十和方の誘いに応えて相次いで十和家に鞍替えした。

十和家の旧領であった矢内地方は孤立,
昭成王は,兵を進め,ついに旧領を奪還した。