丙辰の変

綱豊の無気力,
その無気力を反映する形となった石岡救援の失敗――

綱豊の求心力は奈落の底まで落ちたといって良く,
高宮家中は崩壊するに至る。

大康22年(1495),昭成王は,いよいよ高宮家本拠 長山へ進撃した。

高宮方からは,十和方へ大量の投降者が出る。

綱豊は,ついに長山を出て名和平原の寺内町 川島へと落ちていった。

十和軍は,ほぼ無傷で長山に入ることができた。

高宮家を滅ぼし,その版図を併呑した十和家は,
一躍,名和国内の有力勢力となる。

昭成王は名和平原へ一歩を記した。

その翌年である大康23年(1496),
名和国の都 津京(しんきょう)で変事が起こった。

大康王が弟 義枚(よしひら)を奉じる一派によって弑殺されたのである。

この年の干支から丙辰の変と呼ばれる。

義枚派の筆頭は,鷲尾文俊である。

弑された大康王は,先の国王 天爵王の甥であるが,
天爵王に男子がいなかったために,後継とされたのであった。

しかし,元々,天爵王の後継候補と目される王族は幾人もいた。

大康王は,候補の中ではむしろ不利な立場にあった。

元服前だったからである。

にもかかわらず幼年の大康王が即位できたのは,
名門 鷲尾氏の意向が働いたためであった。

ところが,大康王は成人後,親政を志したから,
朝廷での実権を掌握し続ける鷲尾氏との確執が年々,
深くなっていった。

ついに大康王は,側近の泉義映(いずみ・よしあき)と結んで
鷲尾氏の排除を画策するようになった。

ところがこの企ては,朝廷に深く勢力を張る
鷲尾文俊の知るところとなった。

文俊は,
先手を採って大康王を弑逆し,政敵の泉義映を敗死させ,
より従順な性質の王弟 義枚を王位につけたのである。

大康王の太子 義知は,難を逃れ都を脱出した。

鷲尾文俊は,堀田典豊に義知の捕捉を命じた。

十和家中では,早智秋が

「ここは,太子に救援を出して当家に迎えるべきです。

当家は,皇帝の末といえど,恐れながらまだ力は名和国全体に対して小さく,
名和国の諸侯・諸臣で,名和国王に忠義を誓う者は多くございます。

太子を迎えれば,当家は,名和国を安んずるという名分を得,名和国王に忠義を誓う者を集めることもできます。」

と主張した。

昭成王は智秋の言を採用して,太子 義知救援のために長山を進発した。