王太子奉戴

昭成は,里見泰之を太子の救援に向かわせると,
自身は鷲尾勢の退路を絶ちにかかった。

このため,鷲尾方の堀田典豊は,
義知の捕捉をあきらめて引き上げた。

鷲尾文俊は,典豊を叱責する。

鷲尾家中の重鎮 大熊俊就は,

「堀田殿が無理に義知を追っていれば,
我が軍は潰滅していた可能性があります。

堀田殿の判断は妥当です。」

と擁護した。

しかし文俊は,納得せず堀田を擁護した大熊俊就に不信を抱くようになる。

また,文俊は,時永貴廉(ときなが・たかかど)から
早期の昭成討伐を勧められていた。

ところが,文俊は,昭成の存在を重く見てはおらず,
貴廉の進言を受け流した。

この間に,昭成は,入京に向けて態勢を整えていく。

早智秋は,

「今,盟友である早重久公は,
南・重光両氏の南進を引き受ける事態となっています。

この事態をそのままにしておいては,
重久公は,当家との誼を断ち切ってしまうでしょう。

重光家はともかく,南熾和公とは,和睦の余地があります。」

と語り,昭成に南家との和睦をすすめた。

昭成は,早智秋を南熾和のもとへ遣わして,南家と講和した。

講和にあたって,十和方は,三沢と志和を南家に割譲している。

三沢と志和は,もともと南家の所領であったが,
重光氏が奪取,その後,大康16年(1489)の黒沢の戦いで
重光氏から十和家が奪った土地であった。

熾和は,重光氏に対抗する必要から,
強大化した十和家との和睦を喜んだ。

十和家でも昭成の正室 明子が実家と十和家の対立の終焉に,
胸を撫で下ろしたという。

さらに昭成は,太子 義知の正統性を諸侯に喧伝して義知派を形成し,
鷲尾氏と敵対する比奈氏や才原氏に鷲尾領をうかがわせた。

ここにいたり,ようやく事態を重く見た鷲尾文俊は,
十和討伐を企図するようになった。

とはいえ,先に文俊が時永貴廉の進言を受けた時とは,
情勢は変わっていた。