鷲尾家中分裂

昭成王は,今や名和王太子 義知という大義名分を手にし,
後背地を安定させ,鷲尾氏に対する包囲網を築き始めていた。

鷲尾家臣 時永貴廉は,主君 文俊に進言するに当たって,
こうした情勢の変化に鑑み
短期決戦論から,持久戦論へと主張を変えていた。

その一方,鷲尾家内で従前より貴廉と対立していた
村谷師康(むらたに・もろやす),三山俊勝らは,
貴廉の進言を場当たり的と批判,
文俊に短期決戦を進言した。

十和宮家が,いまだ高宮領を併呑してから間がなく,
人心を安定させていないだろうという予測が,
短期決戦論の論拠であった。

文俊は,自身が短期決戦を望んでいたこともあって,
自らの意向を後押しする村谷・三山らの進言を採用した。

大熊俊就は時永貴廉を支持して,
村谷・三山らの意見を根拠薄弱な楽観論であると指摘,
持久戦論を展開して,再考を文俊に促したが,
これは,文俊に煙たがれるだけの結果となる。

村谷師康は,
大熊・時永両将が家中での強盛を恃んで増長していると讒言した。

情勢の変化を考慮しない文俊は,
時永貴廉の進言内容の変化を臨機応変とは受け取らず,

「一貫性を欠いている」

と断じて,貴廉と貴廉を支持した大熊俊就の両将を疎んじるようになる。