山奈広康の勇躍

久慈で昭成王が鷲尾軍を破ったことによって,
名和平原の反鷲尾勢力は,にわかに勢いづいた。

名和平原西部の才原氏,南部の比奈氏,東部の片島氏らが,
昭成王に接近してきた。

また,今は鷲尾領となっていた泉氏の旧領でも,
かつて義映に仕えていた残党が蜂起した。

昭成王は,義映の子 忠映を泉旧領へ派遣して泉残党の指揮を採らせた。

大康25年(1498),昭成王は,

「機は熟した。今こそ名和国の逆臣と偽王を打ち倒す時である。」

と,津京を目指した。

昭成王の十和軍は,泉軍,才原軍とともに北西から,鷲尾領へ侵攻,
南西からは比奈軍,東からは片島軍がこれに呼応した。

しかし,鷲尾方は孤立したわけではなかった。

名和平原の南方 川手地方に拠る山奈広康は,
鷲尾文俊を救援した。

山奈広康は多年,単独で湯朝志賀国の名和国領への侵攻を
阻止し続けている人物である。

名和国の一地方の一諸侯に過ぎない立場で,
湯朝という名和国全体の好敵手であり続けた一国と,
渡り合っていたのである。

しかしその湯朝志賀国は,近年,深刻な飢饉に見まわれ,
名和国領へ侵攻する意欲も力も失っていた。

このことが広康の野心に火をつけた。

広康は,

「当家飛躍の機会は,今にある。

十和宮と対峙し,うまく打ち勝てば,
当家は,衰えゆく鷲尾家を抑えて名和国の主となれるであろう。」

と考えた。

広康は,自ら兵1万5千を率いて北上,
智将 里谷行賢に兵5千を与え,
別働隊として友谷(ともたに)というところに伏せさせ,
比奈勢を襲わせた。

比奈勢は,潰滅した。

広康は,行賢と合流すると,東へ進路取り,片島軍を襲った。

片島勢は兵5千程度であり,2万の山奈勢の前に潰走を余儀なくされた。

電撃的に比奈・片島両軍を破った広康は悠々と津京に入り,
鷲尾文俊の歓迎を受けた。

十和方の鷲尾家に対する包囲は,
山奈広康の動きの前に崩されてしまった。