早智秋は,
「広康は,才覚優れ,時宜を得た安原の会戦以前には,
勢力を拡大しました。
しかし,鷲尾文俊の失策に巻き込まれて時宜を失い,
その後は,当家と戦っても成果を挙げられていません。
結果,今の広康は,その優れた才覚を求心力の維持に,
つぎこんでいる状態です。
先の戦でも,蓮城・泉らの当家への反抗が失敗すると,
早々と川手に引き上げました。
長く本拠 川手を空けることができないのです。
前線の長津には,佐伯嘉秀・杉山頼友を入れていますが,
彼の地の防衛に十分な備えであるとは言えません。
直ちに長津を攻めれば,勝利できるでありましょう。」
と昭成王に献策した。
これを受け,昭成王は,山奈広康への反撃を企図し,
天佑4年(1501),長津地方へ侵攻する。
早智秋が紗摩川を,昭成王は里見泰之・八幡元彦・西井元孝とともに陸路を進み,
元鷲尾配下の勇将 川下朋之が別働隊として友谷方面へ進出した。
広康は,川手からは山本統成を友谷の救援に派遣する。
山本統成は,
密かに川下朋之を急襲して敗死させた。
長津に近い中湊では,山奈方の杉山頼友が,
早水軍や八幡・西井隊の攻勢をよく凌いでいた。
しかし,昭成王は,里見泰之とともに,湯来街道の要衝 岩村を奪取すると,
中湊に迫り,ついに杉山頼友は劣勢となる。
佐伯嘉秀は,配下の市井真存(いちい・さねなが)の諫止を振りきり
長津を出,中湊の救援に赴いた。
昭成王は里見泰之とともに,長津を出てきた佐伯嘉秀を強襲,
里見隊が嘉秀を討ち取る。
十和軍は,長津を占領した。
杉山頼友は,市井真存に推されて守備軍の指揮を引き継ぎ,
中湊で堅守を続ける。
事ここにいたり,山奈広康は,
中湊の救援と長津の奪還を企図して川手を出た。
広康は,十和軍と対峙したが,
勝利はおぼつかず,頼友とともに川手に引き上げっていった。
