天命

天佑6年(1503),
名和国の諸侯,臣下は,亜州東海岸青海にある
青海宮(おうみぐう)に神託を仰いだ。

そこには瑞穂帝室の祖先神が祀られている。

青海宮では,
「明楽帝の血脈を世々,皇子の血により受け継いできた綾湊宮家の昭成王が,
帝位に就くべきである。」

との託宣が得られ,その結果,昭成は,
始祖の「宮号」である「綾湊」に復帰し,
綾湊宮となった。

「宮号」とは,
瑞穂帝室において帝位継承権を持つ男子の家の称号であり,
皇帝から臣下へと授けられる「姓」・「氏」や,
自ら名乗る「名字」とは別のものである。

臣籍降下してしまえば帝位継承権を喪失し,
「姓氏」を皇帝から与えられる。

綾湊宮家の始祖 明楽帝の第五皇子 久世皇子は,
明楽帝より,亜北の綾湊を与えられるとともに
「綾湊」を「宮号」とすることになった。

久世皇子とその子孫は,そのまま代々,都にあったが,
瑞穂国分裂の際には,当主 嘉高が長門政権に従って都から綾湊に移ったのである。

その後,綾湊家は,
嘉高の玄孫 嘉尋が病弱であった長男・次男に変わって
三男 嘉成に譲位し,本拠を十和に移したのであった。

ちなみに,広奈国の帝室の宮号は,「葉山」であり,
各務国再興をうたう紗耶正信の「紗耶」も「宮号」である。

紗耶家の場合は,前各務国時代に皇帝から「紗耶」の宮号
を与えられてそれをそのまま保持し続け,広奈国時代には,
名字化していた。

これを正信が「宮号」として復活させたのである。

さて,昭成が「綾湊」というより瑞穂帝室に親しい「宮号」を称したことは,
皇帝即位への意志を示したことにほかならない。