親征

元光帝による瑞穂国は,
古代の瑞穂国と区別して後瑞穂国,元光朝瑞穂国,または,
綾湊宮家による瑞穂国を意味する綾朝(りょうちょう)瑞穂国と称される。

綾朝は,しかしかつての瑞穂国に比べれば,
まだ名和平原と亜北の一部を実効支配するにすぎない,
極めて小さな勢力でしかなかった。

旧名和国諸侯の一部も,綾朝に抵抗していた。

元光帝は,各地に軍を派遣して,抵抗する諸侯を討伐させる。

元光2年(1505)には,早智秋、市村時足、上村晴世らの軍が亜州西海岸へ侵攻、
瀬野氏を破った。

結果、綾朝は、熊浜湊を確保して内海交易圏への進出を果たし,
常盤に続々と来航し始めた西洋諸国ともつながっていく。

この年には,また里見泰之が名和平原東南の浅見氏を降しているが,
それに伴い,山奈広康の勢力下にあった御風(みかぜ)氏が,綾朝に臣属する。

御風氏は,その領国が浅見氏の領国と接しており,浅見氏が綾朝に降伏したことで,
今度は,綾朝と接することになった。

長津の戦いで山奈氏が勢力を後退させる中,
御風氏は,綾朝の臣となることが最良と考えたのである。

綾朝と敵対し続ける,山奈広康はいよいよ孤立を深めた。

広康が奉じる名和国王族 義枚もこの頃には逝去し,
その家は,義枚の嫡子 義憲が継承したが病弱であったという。

元光3(1506),元光帝は広康に止めを刺すべく,
親征を敢行した。

綾朝軍は6万に膨れ上がっており,
対する山奈軍は,かつてより勢力を弱め,
兵9千程度しか集められなかった。

綾朝軍は,その数の力を活かし,
山奈領の要衝を次々に占領,川手に迫る。

ここにいたり,
広康は,湯朝の都 湯来に腹心の里谷行賢を派遣して,
名和王族 義憲を連れての湯朝亡命を打診するに至る。

即位直後であった湯朝の嘉楽王は,広康の亡命を快諾した。

湯朝の朝廷では,反対意見もあった。

広康が,かつて湯朝と敵対していたからである。

湯朝の王が長楽王や安舒(あんじょ)王だった頃である。

安舒王の後がその弟で先代の王 雍熙(ようき)王であり,
現国王 嘉楽王は,その雍熙王の従弟であった。

長楽王・安舒王親子の政権をそのまま引き継いだのが雍熙王であったが,
嘉楽王は,政権の顔ぶれを全く変えてしまった。

湯朝では政権の交替が起こったのであり,嘉楽王の新政権は,
別段,広康に遺恨を含んでいなかった。

しかも,名和王族 義憲を広康に担がせて名和国復興を掲げれば,
湯朝は名和平原進出の名分を得られる。

朝廷で広康受け入れに反対したのは,
前政権下の主流派で現政権下では反主流派となっている派閥であり,
結果として,反主流派の意見は採用されなかったのである。

無論,広康はそのあたりの事情を熟知していて,
かつての敵国である湯朝への亡命を考え,実行したのであった。

元光帝は,もぬけの殻となった川手に入り,

「今,我が国最大の敵を逃してしまった。
後に我が治世最大の失策と呼ばれるであろう。」

と広康を取り逃がしたことを大いに悔やんだという。