元光4年(1507),綾朝は,
湯朝の将となった山奈広康の反撃を受けることになる。
広康の調略によって,綾朝方の三原顕吉・鴨下憲長ら
旧鷲尾系の諸領主の一部が湯朝に寝返ったのである。
広康による,川手の奪還のための策であった。
その一方で綾朝では,
早智秋が湯朝内の反主流派を炊きつけるべく策動していた。
元光帝は,三原・鴨下らの反乱に対して,
里見泰之・西井元孝・上村晴世(うえむら・はるよ)らに陸路を,
早智秋・市村時足(いちむら・ときたり)らに紗摩川を南下させた。
一方,湯朝の嘉楽王は,山奈広康・稲森義興・火取並(かとり・ならぶ)らに兵を与えて
三原・鴨下の救援に向かわせた。
ところが,早智秋の策動が奏功,湯朝では,
反主流派が宮原政英を盟主として嘉楽王に対し蜂起する。
嘉楽王派の中心である稲森・火取両将や,精兵を持つ山奈広康らが
都を開けた隙をついてのことである。
山奈広康の軍は,取って返して宮原勢に対応した。
綾朝の早・市村水軍は,湯朝の火取水軍を破り,紗摩川での制水権を確保,
湯朝方諸城の連絡を遮断した。
これら諸城は綾朝の里見・西井・上村らによって個別に打ち破られた。
三原・鴨下らを下して勢いに乗る綾朝軍は,
内乱となった湯朝領を目指して,さらに南下する。
しかし,湯朝の内乱は,山奈広康が瞬く間に反主流派を破って終息させてしまう。
広康はそのまま軍を率いて,綾朝と湯朝の境にある要地 久香崎(くがさき)に
要塞を築くと,撤収してきた稲森隊や火取隊と合流,綾朝を迎撃した。
結局,早智秋が,
「湯朝の隙は今や消滅しました。本来の湯朝は大国であり,また山奈広康は名将です。
その上,久香崎には,堅牢な備えがあります。
今回はひとまず,三原顕吉・鴨下憲長らを討ち,
内憂を取り除けたことで良しとして引き上げるべきと考えます。」
と主張,これに諸将が同調し,綾朝軍は久香崎から撤収した。
