川島包囲

名和国時代の天佑5年(1502)年以来,
元光帝は直堂派名和門徒との間に抗争を続けていた。

川島御坊で包囲を受けながらも,
なぜ名和門徒が長期に渡って綾朝に抵抗できたのか――

一つには綾朝が,山奈広康や湯朝との対決を抱え,
川島御坊に対して積極攻勢をかけにくかったのが原因である。

しかし,より名和門徒にとって幸いしたのは,
重光氏や緒土国との連携である。

重光氏や緒土国は,紗摩川下流域の制水権を確保して,
紗摩川と高屋川を結ぶ川島運河に面する川島御坊に糧食・武具などを運び込んでいた。

川島運河は,綾朝と重光氏の版図の境界線であり,
度々,衝突が起こっていたが,
大規模な水上戦力を保持する緒土国が重光氏を支援しているために,
綾朝は,劣勢に立たされることも多かった。

ところが,元光5年(1508),緒土国の王 経久が病床に伏し,
後継をめぐる争いが表面化すると事態が変わる。

この分裂は,内海の向こうの一大勢力 安達氏に対する態度の違いから生じた。

経久の嫡子 前久は親安達派であり,
その力を利用して日生国との対決で優位に立とうと考えていた。

一方で前久の弟 朝和は反安達派であった。

「安達を頼れば,安達に呑み込まれるだけであり,我らに何の益もない。

むしろ,綾朝・日生に安達の脅威を訴え,我が国の独立を保つべきであろう。」

と朝和は考えていたのである。

元光帝も安達氏の脅威は認識していた。

元光帝と朝和の利害は一致し,両者は連合する。

元光帝は,温岡朝因(ぬくおか・ともより)を朝和のもとに遣わして
直堂派名和門徒との断交を求めた。

重光氏が名和門徒を支援したのは,
名和門徒が重光領内で多数派だったためであるが,
緒土国王 経久とその嫡男 前久は,
単に台頭する綾朝に危機を感じて,重光氏や湯朝・名和門徒とともに
綾朝包囲網を形成しようとしていただけである。

朝和は,父や兄の親安達反綾朝の姿勢に疑問を持っており,
親綾朝反安達の方針を採るほうが自国の利益になると考えていたから,
綾朝側の意向を受け入れて,名和門徒と断交,
兄 前久が名和門徒を支援するのを徹底的に妨害した。

重光氏には,強力な水上戦力はなく,
緒土国前久派の川島御坊支援が滞るようになると,
川島御坊はいよいよ困窮し始めた。

湯朝が前年の宮原の乱の戦後処理に専念する様子を見て取った元光帝は,
川島御坊の包囲網を強化する。