元光6年(1509),補給を絶たれて一年を経た川島御坊の困窮は,
深刻となった。
元光帝は,降伏を認めず,川島からの逃亡を図った門徒を攻撃して殲滅する。
降伏が認められないため,川島方は猛烈な抵抗を示すようになり,
また,必死に血路を開いて綾朝による包囲を脱しようとするものが相次いだ。
このため綾朝方でも,千近い戦死者を出すことになる。
とはいえ,川島方の飢餓は極限にまで達していたのであり,
ついに綾朝方は,川島に総攻撃を仕掛けて,
門徒を老若男女問わず殲滅した。
川島方の被害は綾朝方の十倍にもおよび万を数えたという。
重光領や前久派緒土国領へ落ち延びることができた川島の門徒は,
ほんの一握りであったという。
名和平原での戦乱は終結し,元光帝は,津京へ凱旋した。
さて翌元光7年(1510),綾朝と覇を競う湯朝では,
未だに宮原の乱が尾を引いていた。
宮原派に属していた亜南東海岸の外城(とじょう)政貴が,
湯朝内で台頭する山奈広康の排除を目指して挙兵したのである。
広康は,湯来平原から霧山山地を越えて東海岸へ遠征した。
湯朝の内乱に乗じて,元光帝は,湯朝遠征を開始する。
かつて,
「山深い亜北より,交通の発達した名和平原へ打って出るべき」
と元光帝に献策した早智秋は,
「豊かな名和平原を支配すれば,
亜州全土の平定が可能となる。
亜州を平定してはじめて,
内海の西を占める大勢力と渡り合えるのであり,
天下平定はその先にある。」
と考えていた。
いわば,天下二分の計である。
内海の西には,かつては今原・美好氏がおり,今は安達氏がいる。
既に名和平原を平定した綾朝にとって,「湯朝の打倒」という事業は,
安達氏と並ぶ勢力へ成長し,天下二分の段階へと進むために必須の事業であった。
