元光年間

元光8年(1511)末,元光帝は崩御した。

脳卒中だと言われている。

津京入京以来13年,在位7年,48歳の若さであった。

決して長い治世とは言えないが,その業績は大きかった。

綾朝は,元光末年までに名和平原の統一を果たし,
動員可能兵力は6万に達している。

十和地方の小勢力から出発した綾朝は,
今や日生国・湯朝と並ぶ亜州の三大国の一つになった。

征服した版図では,その都度,検地を実施,
特に即位後には従来の指出検地から,直接検地へ移行,
支配体制の一元化と兵農分離が進む。

さらに,従来の「座」の解体(楽座)により,
商業の自由化と新たな商工業者の掌握を実施,
各地で通行税の廃止を実施して物流も促進した。

また,諸侯統制の基礎を作り,これは,二代 建文帝(頼成)の代に
建文令として実を結ぶ。

綾朝の勢力圏では,中小の領主や地域の有力者など,
中間搾取を行う権力は衰退・消滅していき,
政府が直接的に各階層を把握する新しい封建体制へ移行していくことになる。

さらに、元光年間に綾朝は,熊浜湊を確保して内海にも進出、
海内貿易のみならず,南蛮貿易を開始した。

元光帝は,また一門・諸臣・諸将をよく用いている。

結果として,泉成晴・十和成俊・十和安成ら一門や,
早智秋・東条誠久・里見泰之らいわゆる建国の三傑を始めとした
多くの賢臣,名将らがまだ若い二代皇帝 建文帝を全力で支える体制が培われた。

綾朝は創始者を失ったが,次代以降も粘り強く勢力を拡大していくのであった。