斜陽

入島神聖は,百二十七世3年(1490),神聖家の本拠 世羅で,
後に百二十八世総攬となる伯台神聖(はくたいのしんせい) 広慈(ひろちか)の長子として誕生した。

日生国は君主制でないため,元号を用いず,
代わりに総攬の代数を用いる。

百二十七世3年とは,初代総攬 明彦から数えて
百二十七代目の総攬 成瀬熙子が就任して3年目ということである。

日生国は伝説上では,通暦紀元前540年,実際には,
首州で統一王朝をつくった諏訪国と対立した集団が,
紀元前1世紀ころに南海で建国したとされている。

いずれにせよ,日生国は千数百年以上続いてきた歴史の古い国であったが,
入島神聖誕生の頃は,危機を迎えていた。

13世紀末以後,国家元首である総攬は,
日生国にあって別格と言える存在の神聖家と
玉・公・侯・伯・子・男の爵位の筆頭に当たる玉爵位を有する六つの家の持ち回りであった。

この体制は,当初は権力闘争を抑制して政治を安定化することに役立った。

しかし,やがて,負の面が目立ちはじめる。

体制内部の都合だけが優先される状況となったのである。

体制を担う貴族層は,何もせずとも権力と財力を有する立場であり,
下手に新しい政策を導入すると失敗して失脚する危険がある。

政府の政治は全て前例によって行われ,
前例を少しでも逸脱することが極端に恐れられた。

時代の変化に制度も政治も追いつけなくなった。

また貴族は無条件で官職を与えられて俸給が支払われ,
濫造された閑職が財政を窮乏させた。

日生国の虎の子と言える海軍力も衰退する。

進取の精神を失った日生水軍は,
緒土国の水軍に遅れを取った。

日生国の内海での勢力圏は後退し,交易網は縮小した。

大陸との貿易も緒土国に妨害される始末であり,そのために
莫大な収益が失われた。

財政は一層逼迫する。

そして,百二十八世5年(1495)――
日生国衰退を象徴する大事が生じた。

首都 久礼の陥落である。