入島神聖は,志路・北原の戦いで,
連年後退していた日生国の国境線を若干とはいえ押し戻すことに成功した。
神聖の求心力は,一層高まった。
ここで,入島神聖は,二度目の選挙区改革を実施した。
今度も,保守諸侯の反乱が起きた。
乱の起きた百二十九世6年(1515)が「乙亥(きのとい・イツガイ)」であったため,
乙亥の乱(いつがいのらん)と呼ばれる。
しかし,保守諸侯全体の大規模な反乱には発展しなかった。
成瀬・有馬・乙谷・八神などの玉爵家は,
はじめから旗幟を鮮明にして政府側についた。
入島神聖は自ら国軍を率いて反乱軍討伐に出陣する。
「成瀬らに手柄を立てさせて,わざわざ奴らの勢いを蘇らせることもあるまい。」
というのが神聖の考えである。
乾坤一擲,伯台・岐閣間の遮断を狙う反乱軍盟主 末岡邦充(すえおか・くにみつ)は,
岐閣街道の要衝 神奈比(かんなび)へ進出した。
反乱軍は1万。
国軍は,6万。
国軍には,気の緩みが見えた。
「このたびは,物見遊山のようなもの」
と発言した押井正光に激怒した入島神聖は,即座に正光を処刑したという。
神聖の激怒に全軍は,
「思ったよりも今回の戦は難しいのかもしれない。」
と引き締まったという。
反乱軍は消し飛んだ。
末岡邦充は戦死。
反乱に加わった諸侯は,今回は赦されず一族郎党もろとも処刑された。
反乱軍諸侯の所領は,そのほとんどが政府直轄領に編入された。
保守玉爵家は政府への忠誠を誓ったが出番もなく,結局全く得るところはなかった。
というより,神聖が,事前の目論んだ通り,
保守玉爵家に何も得させなかったというのが正しいだろう。
