さらに,福光安楽に新型艦を建造させた。
艦載砲も新型で射程の長い前装砲を導入する。
百二十九世11年(1520),神聖は再度,姫島を攻撃した。
湯朝の山奈広康も呼応して綾朝へ進撃,湯朝軍と綾朝軍は,長岡で対陣している。
姫島奪還を狙う日生軍はといえば,
洋式艦隊が緒土国側の城塞の射程圏外から,執拗に砲撃を加えた。
威力はさして高いものではなかったが,
確実に緒土国側の城塞を打ち崩していった。
連日加えられる砲撃に,緒土国兵士も疲労困憊していく。
ここに至り入島神聖は,姫島への上陸を開始,
疲弊した緒土国軍は後退を余儀なくされた。
島内各所で緒土国軍は,抵抗を続ける。
久礼半島や姫島はつい三十年程前まで千年以上に渡って日生国の土地であった。
日生国の色の濃い地域である。
緒土国は久礼半島占領後,日生国の影響を久礼半島から除くため,
旧日生国系の住民を強制的に久礼半島から移住させた。
しかし,日生国時代,久礼半島には百万の人口があった。
それは,緒土国本土と変わらない人口である。
当然ながらその全てを久礼半島から移住させるのは不可能であった。
緒土国の支配下に入っても,多数の日生人が久礼半島に居住していた。
日生軍は,姫島の各地で住民の歓呼をもって迎えられる。
姫島で抵抗を続けようとした緒土国軍は,
完全に孤立し,程なく殲滅されたのであった。
神聖は,姫島の城塞を修復,新型砲を設置し守りを固めると,
伯台へ凱旋した。
湯朝軍と綾朝軍の戦は膠着状態となり,一時停戦して,双方引き上げている。