第六次北伐

百二十九世17年(1526),緒土国王 前久が逝去した。

前久の後を継いだ一久は,綾朝の皇女 築子(つきこ)を正妃に迎え,
綾朝との関係を深化させる。

前久時代から,緒土国の王位を争う朝和が,綾朝領の熊浜湊を攻撃すると,
一久は,大軍をもって綾朝を救援している。

安達政権が当面,首州の安定を重視して,
亜州の情勢を静観する方針を採ったことも影響していた。

前久の代に比べ,緒土国は勢いを増したが,
日生側は,一久の目が朝和に向かっている間に,
久礼半島で版図を広げた。

日生国は百二十九世18年(1527)の内に,
久礼を除く久礼半島を統治下においた。

翌百二十九世19年(1528)から,神聖はついに久礼の包囲を開始した。

湯朝の綾朝攻撃と合わせての行動である。

久礼には日生国時代の都人は残っていない。

日生国の遷都に合わせて多数の都人が都を出た。

久礼に残った者も緒土国の政策で久礼を逐われた。

神聖は,陸海にわたって,久礼に容赦のない厳重な包囲を仕掛ける。

久礼は完全に補給を絶たれた。

とは言え,久礼には三年は籠もることができるほどの備えがあった。

それでも,

「何年かかっても久礼を取り戻す。」

と神聖の決意は固かった。