己丑の変

百二十九世20年(1529)4月,
日生軍による久礼包囲は,8か月に及んでいた。

日生国の盟邦 湯朝では,前年の秋に山奈広康が綾朝への攻撃を仕掛けていた。

山奈広康は,長岡で綾朝軍を大破し,要衝 友谷へ進撃した。

ところが,年を越す前に友谷包囲中であった山奈広康は病を発し,
湯朝軍は長岡に守備隊を残して湯来に帰還してしまった。

広康は,その後静養を経て,無事復帰した。

一方,久礼包囲中だった入島神聖も,急に身体の不調に見舞われる。

神聖は,やがて胸痛を訴え,程なく徂落してしまう。

四十歳の若さであった。

日生軍は,久礼包囲の中断を決定して撤兵する。

神聖亡き後の聖家では,変事が生じた。

蒲生聖君が,聖太子と太子派の人間を追放して
神聖に即位したのである。

いわゆる己丑の変(きちゅうのへん)である。

蒲生聖君は,諱を康慈(やすちか)といい,入島神聖の弟であり,
武勇に優れ,北伐でも数々の武功を立ててきた。

しかし,偏狭なところがあり,先述の通り,
自身を指しおいて浅宮政臣の進言が入島神聖に容れられたことなどから,
一方的に政臣に悪感情を抱いた。

結局は,浅宮政臣の方でも蒲生聖君に悪印象を持つようになる。

蒲生聖君の神聖即位を聞いた浅宮政臣は,

「蒲生聖君は,他人を凌ごうとする態度や言動が多く,軽率な所が目立つ。

国の毒にしかならない人物である。」

と考え,

「保守派と組んだほうがましである。」

と判断,神聖家を排除した政権の形成を企図して,総攬選挙に立候補した。

蒲生聖君は,自身が総攬に就任するつもりであったが,
当然ながら政臣率いる中間派の支持は得られず,
平民派の支持すら固められなかった。

蒲生聖君は,政臣を罵りながら総攬選への立候補を取りやめた。

元老院では,浅宮政臣が総攬に選出された。

入島神聖の政権が,貴族層開明派・中間派と平民派の連合政権であったのに対し,
政臣政権は,貴族層保守派と貴族層中間派の連合政権となった。

政臣は,しかし保守派の復古的な権益回復要求を受け入れるつもりは毛頭ない。

つまり,入島神聖の時代に実施された冗官整理や選挙区改革,国軍強化,貴族領への政府介入などの成果を
維持する姿勢を示したのである。

政臣は,蒲生聖君率いる神聖家以外の開明派貴族や平民派と,
水面下で積極的に連携をとって,保守貴族に対抗した。

さて,聖太子は,後藤信暁を始めとした
蒲生聖君の神聖即位に反対する多くの臣に支えられて,香耶義治の元へと亡命する。

義治は,領国の境まで出て,辞を低くして聖太子を迎え入れた。

入島神聖が目指した日生国の興隆は,やがてこの聖太子によって果たされていくこととなる。