誕生

名和国は王位継承騒動を引き金とした壬申・癸酉の乱以後,
群雄割拠が進んでいた。

山奈家は,川手の征南大将軍家 白河氏の管轄下にある有力諸侯であり,
征南大将軍の管轄は,名和国の宿敵である湯朝に対処することであった。

名和国が乱れる一方,湯朝は,淳化王のもと全盛期を迎えていた。

淳化王はその治世の間,大乱で分裂した名和国に対して,
5度も大規模な親征を敢行している。

名和国内は,壬申・癸酉の乱をひとまず和睦によって終結させた。

しかし,なおも名和国内に対立は残ったままであり,
湯朝の淳化王の攻勢に一枚岩であたることができなかった。

結局,天爵10年=淳化36年(1461)には,
川手が陥落して,白河本宗家は滅亡してしまう。

白河家の傘下にあった山奈家も領国の7割を喪失し,
正に風前の灯となっていた。

広康の父 義康が無能だったわけではない。

義康はむしろ白河家を扶けて全盛期の湯朝と良く渡り合っている。

白河将軍家麾下の諸侯の対立を,
義康は,度々調停して,
名和国南部を白河将軍家のもとにまとめることに成功していた。

淳化王にしてみれば,義康は名和国攻略の最大の障壁であり,

「義康有る限り,名和国征伐は成し遂げられない。」

というほどの存在であった。

義康は,白河本宗家が滅亡すると,白河家の傍流で
名和国西南部の要衝 友谷に拠る友谷白河家を将軍家として支えたが,
この友谷家も淳化王の親征軍により,攻め滅ぼされてしまう。

広康は,友谷陥落の直後に義康の嫡子として,
山奈家の本拠である朝丘で誕生した。

名和国の天爵13年,湯朝の淳化39年(1464),
奇しくも,綾朝の元光帝と同じ生年である。