初陣

天爵15・淳化41年(1466),淳化王が崩じた。

淳化王の後継者 大聖王は,父王同様に名和国打倒を目論んでおり,
天爵17・大聖3年(1468),山奈家本拠 朝丘を攻囲する。

山奈義康は,3万の湯朝軍に対して兵8千しか持ち合わせていなかった。

そこで,あくまでも湯朝軍の本陣に狙いを絞って,
情報収集に勤しんだ。

義康は,大聖王の本陣の位置を突き止めると,
精鋭を選りすぐって突撃を敢行した。

山奈軍は湯朝軍に突き刺さり,湯朝軍は,寸断される。

大聖王は深手を負い,
混乱を生じた湯朝軍は,散り散りになって敗走した。

重傷の大聖王は,王都 湯来に帰還,
静養を余儀なくされた。

大聖王の回復は思わしくなく,
川手地方における大聖王の求心力は,急速に低下しはじめる。

淳化王時代に湯朝に降伏した旧名和国の諸侯・諸豪を中心に,
湯朝への離反が少しずつ増加していった。

天爵20・大聖6年(1471),大聖王は崩じた。

湯朝では,大聖王の甥 建中王が即位する。

建中年間の湯朝は,建中4年(1474)から始まった旱害による大飢饉に
悩まされることとなる。

他方,川手地方は,旱害に合わず飢饉を免れていたから,
自然と山奈方が湯朝に対して優位に立っていった。

この年,名和国では天爵王が崩じ,
鷲尾文俊が天爵王の甥 義成(よしなる)を即位させている。

大康王である。

攻勢を強める義康は,ついに川手奪還へ向けて動き出す。

広康は,この戦いで初陣を迎えた。

義康は,川手と湯朝本領の連絡の遮断を狙った陽動を仕掛ける。

初陣の広康は,見事に陽動を成功させた。

川手からおびき出された湯朝軍は,
義康率いる本隊と,広康の陽動部隊との挟撃を受けて潰滅する。

大康2・建中5年(1475),義康はついに川手を陥落させた。