大康7・建中10年(1480),湯朝で建中王が崩じる。
建中王には,実子がなく,複数の王族が後継候補となっていた。
結局,建中王の従弟である朝貞を推す一派が,主導権を握り,朝貞が国王に即位した。
長楽王である。
しかし,反主流派も隠然たる勢力を維持していた。
大康8・長楽2年(1481),義康は,
長楽王の権力基盤が弱いことを見て取り,
湯朝攻撃を計画した。
しかし,当の義康も病を発し,そのまま不帰の客となってしまった。
これにより,広康は18歳の若さで山奈家の当主となる。
湯朝の新王 長楽王は,義康の逝去を川手奪還の好機ととらえ,
川手遠征を計画した。
吉井豊長(よしい・とよなが)は,
建中の飢饉の傷が癒えていないことを理由に,
川手遠征に反対した。
ところが,強硬派の福木貞豊(ふっき・さだとよ)は,
「山奈家は,義康が一代で築いた勢力です。
義康の才覚によって,一時的に膨れ上がっているだけに過ぎません。
支柱であった義康が亡くなり,後を継いだ広康は若年。
我が国が大軍をもって川手を目指せば,多くの領主が我が国に靡くでしょう。」
と,楽観論を唱えた。
長楽王は,結局,福木貞豊に兵3万を与え,川手へ向かわせた。
広康の腹心 山本統久(やまもと・むねひさ)は,
「湯朝には,先王時代の大飢饉の影響が色濃く残っています。
大軍を擁していますが,糧食は不足気味です。
持久の構えを取るべきでしょう。」
と進言,広康もこれに同意する。
福木貞豊の予測は外れ,山奈方の結束は固かった。
湯朝軍は,川手を攻撃したが,
広康の堅守を崩すことができない。
ひと月も経つと,湯朝軍では,
三万の兵を養うだけの糧食が確保できなくなった。
広康は,ついに湯朝軍に夜襲を仕掛けて,大勝した。
