川手地方掌握

湯朝軍の反攻を退けて川手を守った広康は,
いよいよ川手地方全域の掌握をめざして,
湯朝方の諸城に攻勢を仕掛けた。

湯朝も度々川手地方へ援軍を派遣するが,
連年その勢力を後退させる。

大康11・長楽5年(1484),湯朝は,
3万の軍を派遣して川手地方での主導権を奪い返そうと企図した。

広康は,羽多野へ進出,山本統久・里谷行賢らを伏せさせ,
湯朝軍を待ち受けた。

湯朝軍は,広康を小勢と侮り猛攻を仕掛けたが,
伏兵となっていた山本・里谷両将に突如攻撃を受けて打ち破られた。

羽多野で勝利した広康は,
大康13・長楽7年(1486),川手地方では
湯朝最後の拠点となっていた要衝 真砂湊を攻略する。

真砂の守将の一人である及川貴次を寝返らせて得た勝利であった。

広康は,ついに川手地方全域を制圧したのである。

さて,川手地方に隣接する名和国東岸地方には,
才宮・浅見・御風・椎名・山吹の東岸五氏を始めとする
諸侯・諸領主が割拠していた。

東岸地方も,南の境で湯朝と接している。

その昔,淳化王時代に全盛期を迎えていた湯朝は,
東岸地方の大半を川手地方の大半と合わせて実効支配していた。

淳化王時代の名残で湯朝の勢力は,
東岸地方には未だ残っており,東岸五氏のうち椎名氏・山吹氏は,
湯朝の影響下にあって,名和国側の才宮氏・浅宮氏・御風氏らと争っていた。

広康は,川手地方平定後,東岸地方に積極的に介入し,
丙辰の変が起きた大康23年(1496)ころまでに,椎名氏・山吹氏を降して,
湯朝の影響を東岸地方から排除することに成功している。