安原会戦

大康23年(1496),名和国朝廷を牛耳る鷲尾文俊が,大康王を弑逆した。

朝廷で専権を振るう鷲尾文俊を大康王が除こうとして,
逆に文俊に害されてしまったものである。

文俊は,王弟 義枚を即位させたが,
大康王の太子 義知を取り逃がす。

義知は,十和宮家の昭成王を頼った。

義枚は慶福王と称されるが,その称はやはり在世中の元号によるものである。

当然,義知方ではこれを認めず,大康の元号を使い続けた。

さて,文俊は,十和家を除こうとしたが,久慈の戦いで十和軍に惨敗し,
勢威を失い始める

広康は,従前より鷲尾家と友好を築いており,
十和宮家台頭の後もその姿勢を崩さなかった。

広康は,自ら名和国を主導するつもりであり,

「十和宮に取って替わるのは難しい。十和宮がこれ以上大きくなるのは阻まねばなるまい。

文俊の方が付け入る隙がある。」

と考えていたからである。

義枚方の慶福3年(1498),
十和軍が名和国の都 津京への入京を目指して征旅をおこすと,
広康は,鷲尾家を救援するべく兵を動かした。

鷲尾家を包囲する諸侯を,攻撃し始めたのである。

比奈氏の軍は,友谷で広康の将 里谷行賢の待ち伏せを受けて潰滅,
また,片島氏も広康本隊の攻撃を受けて大破された。

広康は,十和方による鷲尾文俊包囲網をほとんど瓦解させた。

ところが,文俊の寵臣 村谷師康,三山俊勝らは広康を警戒する。

広康の台頭で自分たちの立場が軽くなるのを嫌ったのである。

十和勢に対して広康は,防備を固めた畿内に十和勢を引き込んで,
その勢いを殺いで討つべきことを主張した。

しかし,村谷・三山両将は,畿内に十和勢の侵入を許すべきではなく,
安原まで打って出て,十和勢の行く手を遮るべきであると主張する。

始め,文俊は広康の主張の方に同調的であった。

すると,村谷・三山両将は,

「広康殿が畿内に十和勢を引きこんで戦うべきだと言うのは,
実は広康殿が十和方と内通しているからではないでしょうか。

十和勢を引き込んだ途端に広康は当家を裏切り,
十和宮と一緒になって我々を攻撃する腹積もりであるのかもしれません。」

と密かに文俊に訴える。

結局,文俊は,村谷・三山らの進言を採用した。

鷲尾軍は,十和軍の畿内侵入を阻もうと安原に布陣したが,結局,
十和方の陽動作戦に引っかかり大敗を喫する。

広康は,十和方の陽動を見抜いており,鷲尾軍が陽動につられたのを見ると,
利あらずとしていち早く川手まで引き上げてしまった。