亡命

安原の会戦後,鷲尾文俊は,都落ちを余儀なくされ,程なく病死,
広康は,十和家に対抗するため,文俊の旧領を侵奪した。

さらに,十和政権が奉じる義知(天佑王)を偽王としてその即位を認めず,
文俊に擁立されていた義枚(慶福王)を王として奉じる。

天佑王の朝廷では,十和氏の権力が増大していくが,
当然,それを不満に思う諸侯や廷臣も少なくなかった。

広康は,十和政権に不満を持つ諸侯や廷臣を煽る。

やがて天佑王と十和宮の間が不穏であることを察知した広康は,
反十和勢力の決起を促すべく,慶福5年(1500),津京入京の軍を起こした。

十和宮が広康迎撃のため都を空けると,反十和勢力が決起したが,
この反乱はたちまち十和政権の重鎮 東条誠久によって鎮圧される。

広康を迎え撃とうと津京を進発した十和方には,
動揺も見られず,広康は,川手へ引き上げを決めた。

「博打の色が強すぎた。」

と広康はこぼしたと言う。

広康の足元が不安定になり始めていた。

東岸地方の諸侯が広康から離れる動きを見せ,
旧鷲尾家臣らの動きも不穏で十和方に鞍替えする動きも出ていた。

十和軍は,広康の苦境に乗じて長津へ兵を進める。

広康が鷲尾文俊の死後,鷲尾家を滅ぼして掌握した土地である。

広康方は始め山本統成が,十和方の川下朋之を敗死させ,
杉山頼友が中湊を固守するなど,気勢を吐いていた。

ところが,長津の佐伯嘉秀が里見泰之の陽動に引っかかって討たれ,
長津も陥落すると広康方の劣勢は決定的となる。

広康は,中湊救援および長津奪還を目指して動いたが,
劣勢を挽回できず,中湊を明け渡して川手に引き上げた。

長津での敗戦は,広康の求心力を一層低下させる。

対照的に十和宮は,順調に勢力を拡大し,
縁ある宮号 綾湊を名乗り,さらに神託により瑞穂国再興を宣言,皇帝に即位した。

広康が奉じていた国王 慶福王は,慶福10(1505)年に崩じ,
その後を継いだ義憲(興初王)は病弱であった。

綾朝の一層の勢力拡大に接し,広康は,

「湯朝を頼る。」

と決意し,湯朝に密使を送る。

即位間もない嘉楽王は,権力基盤が不安定だったこともあり,
広康を救援することについては消極的であったが,
広康主従を興初王共々,湯朝へ受け入れることについては承諾した。

興初2年(1506),綾朝の親征軍を迎えると広康は,
川手を放棄し,湯朝へと亡命したのであった