宮原の乱

湯朝の嘉楽2年(1507),湯朝の客将となった広康は,
川手奪還へ向けて川手地方の諸領主の調略を開始,
三原顕吉・鴨下憲長といった領主が綾朝から,湯朝へ鞍替えした。

これに合わせて広康は,川手地方へ侵入しようとしたが,
綾朝は,三原・鴨下両将に対していち早く討伐軍を差し向けた。

広康は,三原・鴨下らを救援し,綾朝と対峙することになったが,
綾朝の早智秋は,湯朝の内部分裂を策動していた。

この策動は奏功,宮原政英ら反主流派が,嘉楽王に対して蜂起する。

湯朝では,大聖王時代に国王の求心力が低下して以来,
派閥間の権力闘争が激しく,何度も主流派が入れ替わっていた。

この度重なる「政権交替」は,王位継承に強い影響を及ぼす。

湯朝では,先王 雍熙王時代,国王に実子がなく,その後継争いが生じる。

後継候補の内,朝頼王子・朝素王子は雍熙王の従弟,
朝昌王子は,王の甥であった。

結局,吉井氏や遊佐氏・稲森氏らの推す朝頼王子が即位したが,
これが湯朝の現国王 嘉楽王である。

朝素王子を推していた宮原氏や加瀬氏,津雲氏は,
雍熙王の代には主流派であったが,
嘉楽王の即位に伴い,反主流派へ転落した。

宮原政英は,朝昌王子を推していた三辺(みなべ)氏らとも連携,
嘉楽王の追い落としを狙って反乱を起こしたのである。

広康は,

「この乱を利用しない手はない。」

と言い,いち早く湯朝へ戻る。

宮原政英は,

「嘉楽派の主力が戻ってくるまでには,半月はかかる。

それまでには,手薄の都を落とせるだろう。」

と考えていた。

しかし,広康は,宮原の蜂起から7日で都へ取って返した。

宮原勢は,周章狼狽も甚だしく,都の軍と広康の軍の挟み撃ちにあって
撃滅されてしまった。

広康は,吉井豊長や稲森義興,火取並らとともに,
反主流派の残党を各個撃破する。

湯朝内での騒乱を早々と収めた広康は,取って返して,
綾朝軍と久香崎で対峙した。

湯朝の内乱が収束したことで,好機が去ったと見た綾朝軍は,撤退する。

嘉楽王は,広康を反乱鎮圧と綾朝軍撃退の最大の功労者として,
反乱軍の旧領から広康に大規模な加増を与えようとした。

しかし,広康は,吉井豊長や稲森義興,火取並らの功績を讃えて,
小さな加増しか受けず,さらに,

「王家の繁栄が国の安定に繋がります。

王家の御料地を増やし,王家を強くすることが肝要です。」

と,王が自分に与えようとした土地の多くを王家の直轄地とすることを提案した。

以降,広康は嘉楽王の絶大な信頼を勝ち取り,
また,功績を誇らなかったことで,主流派から敵視されることも避けたのである。

広康は,宮原の乱を最大限に利用したのであった。