湯朝王家の実力は,復活し始めていた。
自然と嘉楽王から信頼を寄せられた広康の発言力・求心力は高まっていく。
広康は,湯朝の征北将軍として,対綾朝戦略の中心人物となっていた。
湯朝の嘉楽5年(1510),日生国では入島神聖が政権を執り,
湯朝との同盟関係を望んだ。
このころの湯朝内は,旧宮原派の残存勢力や,
湯来・志賀盆地の外,いわゆる嶺外地方にあって,
王家に対して自立的に振る舞う有力諸侯が存在していた。
旧宮原派の外城氏,嶺外地方の天堂氏・遊佐氏などがそれである。
日生国との同盟について広康は,
「綾朝に対抗する上でも,嶺外の諸侯を牽制する上でも不可欠であろう。」
と考えていたが,主流派の中には,綾朝と対決するより,
日生国を破って内海へ進出するべきであると考える者もあった。
特に日生国が久礼を失って以来,
湯朝では,緒土国とともに弱った日生国を挟撃しようとする考え方が生まれた。
広康は,
「日生国の後退は,一時的なもので,かすり傷を負った程度のこと。
日生国内では,神聖家や諸侯は,いまだ強大な財力・軍事力を有している。
対して綾朝は,成立して日が浅く,国力でも日生国の半分に過ぎず,
くみしやすい相手である。」
と,日生国進出派を説得する。
湯朝と日生国の同盟は成立した。
同じ年,外城政貴が,山奈広康の排除を目指して兵を挙げる。
政貴は,
「朝廷は,広康をうまく使っているつもりかもしれないが,
使われているのは,朝廷の方である。
広康は名和国時代,鷲尾家を潰し,名和国王を傀儡にして綾朝と対抗した。
それが失敗すると,広康は,
名和国を再興するとうそぶいて名和国王族を奉じて湯朝に身を寄せてきた。
しかし,今やすっかり我らが志賀国(湯朝)の将のように振る舞って,
名和国の王族を軽んじている。
こういう人間が,我が朝廷のためになるであろうか。」
と訴えて,主流派を広康排除へと動かそうとした。
ところが主流派は,広康の軍事力を必要としており,外城政貴に同調しなかった。
広康は,朝廷から外城征伐の命を受けて出陣する。
これに乗じて,綾朝は,久香崎へ進出した。