第二次久香崎会戦

広康は,三津城街道の要衝 増岡に陣取る外城政貴を避けて,
箭内(やない)の間道から外城氏の本拠 両城を急襲する。

箭内方面の外城軍は寡兵だったこともあり,敗退を重ね,
また,増岡から急遽,両城方面へ引き返した外城軍本隊も
広康軍の伏兵に遭遇して,大破される。

外城政貴は,残余の兵を率いて両城に籠ろうとしたが,
配下の久谷定平に背かれて討たれた。

両城を守っていた政貴の子 清貴は,降伏する。

広康は,すぐに,綾朝が進出してきた久香崎の救援に取って返した。

広康が久香崎へ戻るのに選んだのは,
湯朝無双の難所と称されていた槌山を通過する道であった。

平坦な三津城街道を進むより距離が短縮されるためである。

急峻な山道を進んだ広康は,
綾朝側の予測をはるかに超える速度で久香崎入りした。

広康は,

「こちらの兵も疲弊しており,これ以上の継戦は望ましくない。

綾朝側の将兵も疲弊し始めているが,
皇帝親征の面目を保ったまま引き上げる機会を探している。

こちらから和議を言い出してやれば,渡りに船とばかりに応じるであろう。」

と考え,主流派諸将を説得して綾朝へ和議を持ちかけた。

久香崎を攻めあぐねていた綾朝は,
広康が持ちかけた和議に応じて兵を引いた。

第二次久香崎会戦の翌年,綾朝では元光帝が崩御する。

湯朝朝廷では,この機に乗じて綾朝を攻撃するべきか否かについて,
検討がなされた。

対綾朝戦略の核を担う広康が,綾朝に動揺が生じていないことを指摘し,
この時,綾朝攻撃は行われなかった。