第三次久香崎会戦

嘉楽12年(1517),湯朝の左大臣 市井真存(いちい・さねなが)が薨去した。

さて,嘉楽王を即位させた現主流派は,一枚岩ではなく,
主流派内でも権力闘争があった。

王権を強化し,嶺外地方の諸侯を下し,綾朝と渡り合う広康は,
今や主流派内で,強力な影響力を発揮するようになっていた。

主流派内には,さすがに広康を敵視する派閥が形成される。

広康は,嘉楽王の信任を背景にして,政敵を抑え,今回の人事でも
見事に自身の推す人物を栄達させた。

祭城頼平(さいき・よりひら)が左大臣に,
岡村政任(おかむら・まさとう)が右大臣となる。

広康自身も,征北大将軍となり,政治的影響力を一層強めた。

飛躍する広康であるが,綾朝との攻防は,一進一退が続く。

この年,綾朝は,湯朝領の志賀攻略を企図して,三度,久香崎を攻撃してきた。

綾朝内には,先に真砂を奪還するべきとの声もあった。

ところが,綾朝第二代皇帝 建文帝は,叔父 十和忠正の

「志賀を攻略すれば,志賀以北の湯朝領は孤立して自然と綾朝になびく」

という楽観論を採用したのである。

広康は,久香崎を攻める綾朝軍を真砂の水軍に牽制させ,
自身は,久香崎を固守した。

対陣は一か月半におよんだが,綾朝は得るところがなく,ついに引き上げた。

翌嘉楽13年(1518)には,綾朝は外城氏を扇動して湯朝に背かせ手を結ぶ。

さらに翌年には,嘉楽14年(1519),綾朝は,またも湯朝を攻撃してくる。

この年,嶺外地方の天堂希彦が逝去し,
後継を巡って希彦の長男 高彦と次男 直彦が争う事態となる。

広康は,この機に天堂氏を下そうと,嶺外地方へ侵攻した。

綾朝は,その隙を逃さず,前年手を結んだ外城清貴に湯朝遠征の軍を興させた。

さらに綾朝軍自体も真砂奪還に動いた。

綾朝軍は十和忠正が率いていた。

先の遠征での汚名返上に燃える忠正は,真砂に水陸から猛攻を仕掛けてたが,
4千もの犠牲を出しながらもこれを陥落させられず,
任を解かれて,上村晴世と交替させられる。

上村晴世は,忠正によって漫然と行われていた総攻撃を改めた。

真砂の城兵の疲弊を見て取って,昼夜交替で休むことなく攻撃を仕掛け,
ついに真砂を陥落させた。

上村晴世は,さらに久香崎を目指して進撃する。

広康は,天堂氏討伐を切り上げて久香崎に取って返し,
また,外城軍には,腹心の里谷行晴を差し向けた。

里谷行晴は,広康直伝とも言える電撃的な行軍で,
三路から嶺内へ迫ろうとする外城軍を各個撃破してみせる。

広康は,今回も久香崎を固守して,動かなかった。

真砂攻略の際の十和忠正による失策で疲弊していた綾朝軍は,
勢いが鈍っており,久香崎を攻めあぐね,またも引き上げることとなる。

同年,内大臣 氏家頼潔(うじいえ・よりきよ)の薨去により,
広康は,後任の内大臣となった。

しかし,翌嘉楽15年(1520)の日生国の北伐に合わせた友谷遠征では,
広康は,戦果を上げられなかった。

友谷防衛の重要拠点 長岡で,里見泰之率いる綾朝の友谷救援軍に進撃を止められ,
長対陣を嫌って撤兵している。