友谷の戦い

嘉楽16年 (1521),綾朝は,またも久香崎へ進撃してきた。

前年,広康は,対綾朝遠征に失敗しており,
湯朝朝廷での立場がやや不安定になり始めていた。

綾朝は,そのような情勢を読み取って,久香崎へ軍を差し向けたのである。

また,綾朝の盟邦 緒土国も湯朝の盟邦 日生国を攻撃しており,
綾朝にとっては,湯朝と日生国に挟撃される心配の少ない状況でもあった。

とはいえ,このころ緒土国は日生国に対して劣勢であり,
このときも,日生領の姫島を攻撃しながら戦果をあげられず,早々に撤兵している。

日生国総攬の入島神聖は,緒土国の攻撃の規模・勢いを的確に判断し,
自らは姫島へ出ず,むしろ,対綾朝を睨んで,綾朝との国境で戦力を増強した。

あわよくば,長岡・友谷を攻略してやろうという布陣である。

広康は,こうした状況に鑑みて,

「いつもどおり,持久の構えを採っていれば,
綾朝の方が勝手に疲弊するだろう」

と読んでおり,その読み通り,まもなく綾朝は,久香崎から引き上げた。

広康は,反攻作戦を企て,里谷行賢・杉山頼友に兵1万を与えて真砂を攻撃させる。

綾朝の川手からは,泉義晴率いる兵2万が真砂の救援に向かった。

川手の副将 早智伯(そう・ともたか)は,

「これは,広康の陽動です。広康の真の狙いは友谷です。

真砂の救援に全力を傾注すれば,友谷への救援がおろそかになります。」

と進言したが,泉義晴は,

「友谷は今のままでも堅牢で,数万で攻められても三か月は持ちこたえられる。

真砂は今のままでは落ちる。真砂が落ちれば,この川手が危ない。」

といって,真砂の救援に全力を注いだ。

広康は,この間に,兵3万を率いて長岡に殺到する。

広康は,前回の遠征が不首尾に終わった後,
長岡・友谷に対する調略をそれまで以上に強化していた。

川手が真砂救援に多くの兵を割いたことで長岡の内部は動揺する。

当面,友谷・長岡には大規模な救援が来ないことが明らかだからである。

綾朝の都 津京からは,里見泰之率いる救援軍が出される。

しかし,津京からは友谷は遠い。

里見泰之は,泉義晴の決断に歯噛みしたという。

広康の従前からの調略が威力を発揮する。

長岡守備軍からは,広康に降伏するものが続出したのである。

間もなく,広康は長岡を落した。

そのまま,広康は,友谷を攻撃する。

広康は,長岡の降将らに,本領安堵のほか加増・褒賞を約束して
友谷攻撃に投入した。

長岡の降将らの士気は高く,死力を尽くして友谷に猛攻をかけた。

結局,友谷の内部からも広康側に寝返るものがあらわれる。

義晴が三か月は持ちこたえられると読んでいた友谷は,数日で陥落した。

里見泰之は,後退した国境線の防備を固め,
義晴は,真砂を守りきりかろうじて面目を保った。