内乱

嘉楽19年(1524),広康は左大臣となる。

前任者 祭城頼平の薨去に伴うものである。

湯朝内の反広康派の反発は,頂点に達した。

嘉楽20年(1525),反広康派の急先鋒 吉井頼長・矢野頼繁は,嶺外地方の天堂直彦や
外城清貴と結んで,広康排除を企図して挙兵する。

吉井氏は,かつて嘉楽王を即位させるのに功績のあった一族であり,頼長の父 豊長は,広康とともに宮原の乱を平定している。

ところがその後,広康が朝廷での影響力を拡大すると,吉井氏は,広康への警戒心を強めるようになった。

そして,広康が政権を掌握したことで,ついに吉井氏と広康は,決裂したのである。

広康は,自派に属す嶺外地方の諸侯 山戸元良(やまと・もとよし)に
天堂直彦を牽制させる。

天堂直彦の軍は剛勇を誇る山戸元良と,天堂家当主の正統を争う治彦に防がれて,
嶺内地方へ入れず,吉井頼長・矢野頼繁や外城清貴と合流することができなかった。

反広康連合は,嶺外東岸地方および嶺内の東部を席巻し,
湯来への進撃をめざす。

湯朝朝廷は,外城清貴に対しては,

「清貴が綾朝による嶺外への侵入を防いでいる功績は前代未聞の偉大なものであり,
今回,乱に加わったことも,朝廷が十分に清貴に報いて来なかったために,
朝廷の信賞必罰を正そうとしたものであろう。

もし清貴が兵を引くならば乱に加わったことは不問に付して,本領を安堵する他,
これまでの功績にも充分に報いるであろう。」

と,伝える一方,吉井頼長を始めとする嶺内の反広康派には,
苛烈な処置をちらつかせた。

実際,捕虜に対しても,外城軍の捕虜を外城方に送り返す一方で,
嶺内の反乱軍の捕虜は,ことごとく処刑するなど,扱いに差をつけた。

これは,無論,外城軍と嶺内の反乱軍の離間を図った広康の策である。

嶺内の反広康派は,外城清貴を信用しきれなくなった。

外城清貴も,連合軍内の不穏な空気を感じて,兵を引いて,朝廷に恭順の意を示す。

嶺内の反乱軍は孤立し,朝廷軍による苛烈な攻撃を受けて殲滅された。

綾朝では,12歳になる建文帝の第二皇子 春成皇子が,
里見泰之とともにこの隙をついて友谷・長岡を奪還し,
初陣を飾っている。

嘉楽21年(1526),綾朝は,友谷奪還の勢いを駆って,久香崎へ進撃する。

ところが,この年の川手・志賀地方を異常な大雨が襲った。

久香崎が面している紗摩川・大内川は,激しく増水して
綾朝の陣は水浸しとなり,ついに撤退を余儀なくされた。

この時の久香崎の戦いにおいて,広康の嫡男 頼康が初陣を迎えた。

広康が,湯朝に亡命してから3年目に誕生した子であり,
母は,嘉楽王の妹である。