長岡の戦い

嘉楽23年(1528),同盟国の日生国は,緒土国から久礼を奪還するため
大規模な遠征を敢行した。

広康もその動きに合わせ,友谷の再奪取を目指して綾朝へ侵攻,
まず,長岡を包囲した。

綾朝の里見泰之は,長岡へ向かった。

広康は,長岡の包囲を継続させつつ,
自身は,里見泰之を迎撃するため,長岡・友谷間にある青山へ進出した。

里見泰之は青山へ迫りつつ,さらに広康の背後を衝くべく,
猛将 泉義晴に別働隊を率いさせ,長岡の東にある要衝 花山へ急行させる。

広康は,青山から長岡近郊の直瀬(すぐせ)へ後退した。

広康が後退したため,里見泰之の目論見は外れ,
広康の背後を衝けなくなった。

泰之は仕方なく,泉義晴と合流して,直瀬へ向かった。

既に,広康は,堅牢な陣地を構築して長岡包囲の態勢に入っており,
直瀬もその堅牢な包囲網の一端であった。

里見泰之にしてみれば,広康による長岡包囲網の一角でも崩さなければ,
長岡は早晩,開城を余儀なくされるため,積極的に広康に攻撃を仕掛け無くてはならない。

泰之は,泉義晴に広康の長岡包囲陣の北側から攻撃を仕掛けさせ,
自らは,直瀬へ突進する。

広康は,泰之の動きを読みきって,粛々と綾朝軍の攻撃を撃退した。

泰之はうかつに広康を攻撃できなくなる。

ついに長岡は陥落した。

ところが,直後,広康は,病に見舞われ,
結局,湯朝軍は全軍引き上げを選択した。

長岡は,綾朝の手に戻る。

湯来に帰還した広康は,健康を回復した。

翌嘉楽24年(1529),旧名和王 義憲が身罷った。

義憲の妃である嘉楽王の娘は,義憲の子を既に身ごもっており,
その子は,義憲逝去から8か月後に誕生した。

男子であり,義憲の後継となる。

また,この年,日生国の入島神聖が徂落し,
政権交代が起こった。

湯朝と日生国の同盟は,そのまま継続される。