嘉楽王崩御

嘉楽25年(1530),嘉楽王が崩御した。

嘉楽王は,

「我が身は消えようとしているが,全く憂いがない。

我が国に広康があるお陰である。

太子はまだ若い,どうか支えてやって欲しい。」

と,広康に国の将来と若い太子を託した。

太子の朝早が即位する。享福王である。

嶺外の諸侯は,享福王を広康の傀儡として,その即位を認めず,
より一層湯朝からの自立の動きを強めた。

享福3年(1532),
嶺内と嶺外の境目に当たる要衝 伊沢が外城軍の攻撃を被る。

湯朝,日生の連合が継続したことから,当時,
綾朝の湯朝に対する攻撃的な動きは鈍かった。

ここにおいて,広康は,

「逆賊討滅の機は,今より他にない。

嵐の激しさをもって敵を打ち崩す。」

と本格的な外城征伐の挙に出た。

広康の遠征軍5万が伊沢へ向かうと,
数的不利から,外城軍は,伊沢から兵を引き上げ,領内の防備を固める。

広康は,三方より外城領を攻撃する。

広康本隊2万は,三津城街道を進み,
山本統成率いる1万2千は,外城領南部の高井街道を進み,
杉山頼友率いる1万8千は,箭内越えを選択した。

兵力で勝る広康の軍は,清貴の兵力を分散させることに成功し,
一層,優位に立った。

広康は,三津城を周辺の要衝を陥して孤立させ,
高井も山本統成の兵糧攻めによって,開城を余儀なくされる。

箭内越えでも,杉山頼友が外城方の伏兵を看破して,
外城軍を潰走させた。

程なく三津城では,清貴に対する反乱が起こったため,
清貴は,東海岸の要衝 長束へ落ち延びようとしたが,
その途上,配下の富山和行に討たれてしまう。

清貴は,父 政貴と同じく,
配下に背かれて最期を迎えることになってしまった。

長束にいた外城清貴の子 直貴は,湯朝に降伏したが,
その所領は大幅に削られ,小諸侯に転落した。