天堂氏征伐

外城征伐の翌年である享福4年(1533),広康は,
今度は天堂征伐を開始した。

天堂氏に攻められた嶺外の諸侯 遊佐氏より,
湯朝朝廷に援軍の要請が入ったからである。

天堂家は希彦の死後,その長男 高彦と次男 直彦が家督を巡って争い,
分裂していた。

高彦死後,高彦の長男 義彦は,直彦の三千の遠征軍を引き受けて,
若年ながら数十の手勢で直彦の軍を潰滅させる剛勇を見せた。

直彦が重傷を負って,やがて亡くなると,義彦は,直彦の子 治彦を打倒し,
天堂家を統一した。

義彦は,享福3年に広康が外城征伐を開始すると,
湯朝朝廷の軍事力が嶺外東岸地方に向いている隙に乗じ,
勢力拡大に乗り出す。

天堂軍は,湯朝朝廷に属する遊佐(ゆさ)氏・山戸氏を攻撃して圧倒し,
遊佐氏はその本拠 平沢に逼塞,山戸元良も孤立を余儀なくされた。

広康は,義彦について,

「その勇は,かつて十万の安達軍を打ち破った綾朝の里見泰之に匹敵するであろう。

しかも冷静で強かさが見える。難敵である。」

と,評した。

実際,遊佐氏・山戸氏を救援するために先遣とした山本統成・稲森義興は,
義彦の猛攻を受けて打ち破られた。

山戸元良は数百で,数か月に渡って天堂軍1万と本拠 山門(やまと)で対峙,
持ちこたえていた。

広康は,3万を率いて天原から天堂氏本拠 福永を目指した。

義彦は,山門攻撃を中断し,弟 和彦とともに広康の攻撃を受ける要衝 利波(となみ)救援に赴いた。

広康軍では,天堂軍の来襲を予測して,山門から利波に至る街道筋に杉山頼友を配して防備を固める。

杉山勢は陣を堅守して,天堂兄弟の猛攻を耐えしのぐ。

広康軍本隊は直ちに杉山勢を救援しに動いたが,杉山勢は潰滅寸前まで追い詰められていた。

広康軍の葛原康直・里谷行輝が,天堂勢の左右に回りこんで挟撃を開始するに至って,
ようやく戦局が逆転,天堂軍は敗走した。

義彦は,湯朝朝廷へ恭順する意志を示して降伏した。

天堂氏は,遊佐・山戸氏から奪った所領を没収され,本領も一部,削られたが,
大諸侯として存続することになった。

ここに至り,大聖年間以降,分裂状態となっていた湯朝は,
広康の手によってようやく再統一を果たしたのである。