綾朝遠征

湯朝の再統一を果たした広康は,享福6年(1535),
いよいよ綾朝攻撃を再開,
8万を超える湯朝軍が二路から綾朝へ侵攻した。

広康率いる本隊5万5千は,志賀を出て,川手を目指して北上,
その軍には,広康の嫡男 頼康の他,
先年,朝廷に恭順した天堂義彦・和彦兄弟も参加していた。

山戸元良が率いる2万5千は,稲森義興・里谷行輝を副将とし,
長岡・友谷を目指した。

綾朝の建文帝は,早明久・市村時文に兵1万を与えて,川手の泉義晴を救援させ,
友谷へは,安代栄家・瀬野幸就にこちらも兵1万を与えて救援に向かわせた。

また,東の副都と言える 有賀には,皇太子 輝成が入って早智秋の補佐を受け,
西の副都とも言える福成には,
春成皇子が入って早智伯の補佐を受けて湯朝の北上に備えた。

さて友谷は,従来,里見泰之が預かっていたが,
この時,泰之は病のために都で静養を余儀なくされており,
代わりに泰之の息子 泰友が入っていた。

広康の本隊は,陸路と紗摩川の水路とに分かれて進んだ。

広康は,真砂と川手の連絡を遮断し,
火取理(かとり・はかる)率いる湯朝水軍が紗摩川上を封鎖した。

綾朝軍は,孤立した真砂から退去して,川手に引き上げた。

川手地方では,広康の大軍の前に,綾朝から湯朝に鞍替えする勢力も多く,広康本隊は8万にまで膨れ上がる。

湯朝軍は,川手地方の諸城を攻略して川手の防衛網を丸裸にしていく。

早明久・市村時文は,自軍の8倍の兵力を誇る広康本隊が包囲する川手を
遠巻きに眺めることしかできなかった。

川手は困窮し,守将 泉義晴は,広康による開城勧告を受け入れて,
城兵の助命と引き換えに自害した。

広康は,29年ぶりに川手に入ったが,
さして感慨深げな様子を見せることもなく,
ただ,側近の杉山頼友に

「常盤は広い。まだ我が国に田舎の城をひとつ加えたにすぎない。」

と,天下への意志を語った。

友谷の里見泰友は,安代栄家・瀬野幸就率いる救援軍と合流すると
長岡の蓮城国長とともに,末川沿いの花山へ進出し,湯朝軍を迎え撃つ。

末川支流の越知川を挾んで山戸元良率いる湯朝勢と綾朝軍は対峙した。

湯朝の稲森義興・山本統慶勢が,越知川の渡河に成功,蓮城勢に襲いかかると,
蓮城国長が戦死するなど綾朝勢は劣勢となり,さらに湯朝勢による突入を許して
ついには,長岡へ撤退する。

やがて,広康が川手を占領したことが,両軍に伝わると,
湯朝勢の士気は高まり,綾朝勢の士気は下がった。

長岡・友谷では,兵の離脱が相次ぎ,
綾朝は,長岡・友谷を捨てて篠岡まで退却した。

山戸元良は篠岡へ進撃,広康本隊も川手地方の残存諸城の攻略にとりかかった。

綾朝は,ただ宇山の戦いで気勢を吐いたのみであった。

宇山は川手地方東端にあり,東岸地方と川手地方と有賀を結ぶ要衝であり,
山奈広康に東岸地方攻略を命ぜられた葛原央直・小島長友(おしま・ながとも)によって攻撃を受けた。

綾朝の皇太子 輝成は,有賀から宇山を救援して葛原・小島勢を撃退したのである。

とはいえ,中湊では,綾朝の重鎮 早明久が,湯朝の火取理によって敗死させられ,
長津も湯朝軍の重包囲を受けて風前の灯火となっていた。

宇山には,今度は杉山頼友が迫っていた。

都の里見泰之は病を押して,長津の救援に向かい,湯朝軍と対峙する。

湯朝は建国以来最大の勢威を示し,綾朝は,建国以来最大の危機を迎えた。