木の葉

長津を包囲する湯朝軍では,里見泰之の南下に備えて,天堂兄弟が守備を固めた。

里見勢の猛攻を天堂兄弟はよく凌いだ。

ちょうど,広康が天堂兄弟を破った利波の戦いに似た形勢となり,
湯朝軍は,今度も,新手を敵勢の側面に回そうとした。

しかし,里見勢は,この攻撃に崩れることなく,整然と後退した。

とはいえ,里見泰之は,長津の包囲陣を突破することができないままである。

長津は,川手同様の運命を辿ろうとしていた。

ところが,ここへ来て広康は,病床に伏すこととなる。

陣中には,極秘に名医として知られる葛城和清(かつらぎ・わせい)が招かれた。

和清は,広康の状態が相当に悪いことを見て取ったが,
懸命に治療に当たる。

広康の病状は,一時,快方に向かう。

けれども,和清は,

「重病の人が,にわかに小康状態となるのは,極めて危うい事態である。」

と感じたという。

和清の懸念どおり,広康は,まもなく危篤となり,

ついに,陣中にて薨去した。

享年72歳であった。

広康は,自身について

「川の水面に漂う木の葉にも似た生涯」

と評したという。

湯朝軍は,広康の遺した指示に従って,杉山頼友を総引き上げの責任者とし,
全軍,湯来へ引き上げた。

政権は,山奈派が掌握し続けた。

広康の嫡男 頼康は,26歳の若さであったが,
広康が現出した湯朝内各派閥の統合をうまく維持する。

綾朝は,広康の最後の侵攻により,重鎮である早明久や泉義晴を失い,
また,病を押して出陣した里見泰之が無理がたたって翌年正月に薨去するなど,大打撃を受けたが,
滅亡を免れ,次第に勢力を回復していく。

湯朝と綾朝は,引き続き,激しく覇を競っていくのであった。